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賛美について
申 10:1 その時、主はわたしに言われた、『おまえは、前のような石の板二枚を切って作り、山に登って、わたしのもとにきなさい。また木の箱一つを作りなさい。
10:2 さきにおまえが砕いた二枚の板に書いてあった言葉を、わたしはその板に書きしるそう。おまえはそれをその箱におさめなければならない』。
10:3 そこでわたしはアカシヤ材の箱一つを作り、また前のような石の板二枚を切って作り、その二枚の板を手に持って山に登った。
10:4 主はかつて、かの集会の日に山で火の中からあなたがたに告げられた十誡を書きしるされたように、その板に書きしるし、それを主はわたしに授けられた。
10:5 それでわたしは身をめぐらして山から降り、その板を、わたしが作った箱におさめた。今なおその中にある。主がわたしに命じられたとおりである。
10:6 (こうしてイスラエルの人々はベエロテ・ベネ・ヤカンを出立してモセラに着いた。アロンはその所で死んでそこに葬られ、その子エレアザルが彼に代って祭司となった。
10:7 またそこを出立してグデゴダに至り、グデゴダを出立してヨテバタに着いた。この地には多くの水の流れがあった。
10:8 その時、主はレビの部族を選んで、主の契約の箱をかつぎ、主の前に立って仕え、また主の名をもって祝福することをさせられた。この事は今日に及んでいる。
10:9 そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。)
10:10 わたしは前の時のように四十日四十夜、山におったが、主はその時にもわたしの願いを聞かれた。主はあなたを滅ぼすことを望まれなかった。
10:11 そして主はわたしに『おまえは立ちあがり、民に先立って進み行き、わたしが彼らに与えると、その先祖に誓った地に彼らをはいらせ、それを取らせよ』と言われた。
10:12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
10:13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
10:14 見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。
10:15 そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。
10:17 あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、
10:18 みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。
10:19 それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。
10:20 あなたの神、主を恐れ、彼に仕え、彼に従い、その名をさして誓わなければならない。
10:21 彼はあなたのさんびすべきもの、またあなたの神であって、あなたが目に見たこれらの大いなる恐るべき事を、あなたのために行われた。
10:22 あなたの先祖たちは、わずか七十人でエジプトに下ったが、いま、あなたの神、主はあなたを天の星のように多くされた。
21節では賛美すべきものと書かれていますが、我々人間はどのような方を賛美するでしょうか?自分の理解の中で、賛美を受けるにふさわしいお方を賛美しますよね。
自分自身があがめる方を人間は賛美するものです。自分で自分をほめる人もいますが・・・
そのような方は自分がある意味「神(偶像)」になっているのかもしれませんね。
神ならぬものを賛美することは人間の力で行うことができます。
しかし、真の神を賛美することは神によらずして、人の力でできることではありません。そして、天地万物を創造主、唯一の神であられるお方、この方だけが賛美されるにふさわしいお方なのです。
詩
147:1 主をほめたたえよ。われらの神をほめうたうことはよいことである。主は恵みふかい。さんびはふさわしいことである。
黙 5:12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
5:13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
しかし、神をほめたたえるということは特別なことであり、勝手に自らが行える事でもないようです。
詩22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。
神は聖なるお方で、そのお方が、なんと神を信じる者の賛美の上に座しておられるとのことです。では、どのような者が神を賛美することができるのでしょうか。
① 神をおそれる者
黙
19:5 その時、御座から声が出て言った、「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」。
神をおそれることがないなら、当然、神への賛美も出てこないわけです。
② 生きている者
イザ
38:18 陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。
38:19 ただ生ける者、生ける者のみ、きょう、わたしがするように、あなたに感謝する。父はあなたのまことを、その子らに知らせる。
③ 神の御国、天国に希望を持つ者
ヘブル
13:14 この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。
13:15 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。
④ 正しき者
33:1 正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。
神の御国に入る事をゆるされた者、神によって義とされた者、
生ける者のみが神を賛美できるのです。
そして、その賛美は自らではなく神により与えられると書かれています。
天国にも当然、神の許しがなくては入ることはできません。
ですから、賛美も神にゆるされた者が行うことができる特権と考えてもよいのではないでしょうか。今、神を賛美している我々は神に感謝しようではありませんか。
賛美が神より与えられる事を書かれた個所があります。
詩
22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。
22:24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。
22:25 大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。
40:3 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。
40:4 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
また、賛美は供え物でもあります。そして、主のおきてを教えていただけるもの、つまり、正しい道に歩めるよう導いていただけるものでもあることがわかります。
詩
119:108 主よ、わがさんびの供え物をうけて、あなたのおきてを教えてください。
119:171 あなたの定めをわたしに教えられるので、わがくちびるはさんびを唱えます。
119:172 あなたのすべての戒めは正しいので、わが舌はみ言葉を歌います。
119:173 わたしはあなたのさとしを選びました。あなたのみ手を、常にわが助けとしてください。
119:174 主よ、わたしはあなたの救を慕います。あなたのおきてはわたしの喜びです。
119:175 わたしを生かして、あなたをほめたたえさせ、あなたのおきてを、わが助けとしてください。
119:176 わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。
悪い時代に生きる我々クリスチャンに対して歩みに注意すべき事が書かれています。その中にあっても神の御旨を知り、御霊に満たされて(聖霊様によって)賛美すべき事が書かれています。
エペ
5:15 そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
5:16 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
5:17 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
5:18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
5:19 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
5:20 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
5:21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
そういえば、主の祈りの「御名があがめられますように」という祈りの大意は神の御名が全てにおいてあがめられる事ですが、「主を賛美する」という点から見るなら、主を信じる我々一人ひとりが主の御名をほめたたえることができます様にという意味でもあるのですね。
この世の君
16:8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 16:9 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。 16:10 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。 16:11 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
罪は キリストを信じない事
義は キリストのあがない
裁きは この世の君
今日は この世の君 について お話します
おそらく 多くの人が 成功し お金
をもうけ 優雅に 暮らしたいと 思っているのでは
無いでしょうか?
少し成功すれば いい車に乗り いい服を着て えらそうな 態度をしたくなるのは
人間の弱さでは 無いでしょうか?
つまり ほとんどの人は この世の君に なりたがって いるの です。
つまり 裁き の対象になっています。
あなたの宝のあるところに 心があるのです。
聖書では 富と神の両方に使える事は出来ない と書いてあります。
誰しも心弱いですが 本当の 価値のあるものを 探すべきです。
この世の君にならず キリストの僕として 謙虚に生きる事をお勧めします。
あなたには神の働きがあります?
2:1 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。 2:3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。 2:4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 2:5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。 2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。 2:7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。 2:8 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。 2:9 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで 2:10 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。
最初に水を水がめに一杯にしなさいと言われましたが ある程度の労苦は必要なのです しかしながら 主は 最後に 私たちが期待していた 事以上に よいもの を与えてくださいます。
おそらく大きな水がめを満たすのは 大変です しかし 主の働きはそれを超えて
皆さんに 御技を されます。
それも 最初から いいもの が無くても 最後に ご用意されている 事 を 知りましょう。
今巷にあるものは どんなに 魅力的か 最初にアピールしてきます。
しかしながら 実はどうでしょうか 自分たちの利益の為に そうする事が多いようにもいます。
多少の困難があったとしても
神の御技 は私たちの知らないところで 良いものを 用意されている 事を知りましょう。
水がめがでてくるのは ヤコブの嫁選び
最後の晩餐の場所を探すとき
サマリヤの女も水がめを もっていました。
私には 解かりませんが 何かかかわりが あるかもしれません
水がめがでてくるのは ヤコブの嫁選びは 婚礼とかかわりがありそうです。
これは イエス様がされた 最初の奇跡で これから 働きが始まったと言えます
キリストの花嫁探し という意味では 同じかもしれません。
御名があがめられますように
「御名があがめられますように」
マタ 6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。 6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 6:3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 6:4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。 6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。 6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 6:16 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 6:17 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 6:18 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。 6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。 6:22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 6:23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。 6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。 6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。御名があがめられますように
クリスチャンならいつもそのように願い、祈るのが当り前ではないか。と思うでしょう?
ピリ 2:21 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
そして
エレ 17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
だそうです。聖書に書かれているので事実です。いくら繕っても無駄です。
では、そのような者が本当に主の栄光を心から求める事が出来るのでしょうか?
ヨハ
8:42 イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。
8:43 どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。
8:44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
8:45 しかし、わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない。
8:46 あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
8:47 神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。
8:48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」。
8:49 イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。
8:50 わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
8:51 よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。
8:52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。
8:53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。
8:54 イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。
8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
私たちはかつては罪人であり汚れた存在だったのです。そして、神を信じたとしても、神によって変えられなければ、あのパリサイ人たちと変わらない者だったのです。しかし、イエスキリストを信じ、義とされたことによって、ただ神によって変えられただけの存在なのです。しかし、それが、どれ程価値ある事か!
つまり、どのような方を信じ、従い、父とするかによって変わってくるという事です。
犬の親子は犬どうし、猫の親子は猫どうし、親子というのは似ていますよね?
まさか、親が鳥なのに子がライオンなんてことは絶対にありませんよね。
そのように我々が誰を父とするのか、信じるのかによって、その信仰、品性が出てくるということなのです。
イエス様を信じることによって神の子とされるということは、
ゴキブリが人間に変えられた位?いえ、それ以上の変化でしょう。
悪魔を父としているのなら知らず知らずのうちに悪魔の品性が出てきます。
「私はキリスト教徒だから・・・」と安心してはなりません。
実によってわかるのです。どのような実を生み出しているでしょうか?
ガラ
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
クリスチャンなのに当てはまってしまったら大変ですね。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。とガラテヤ5:21にあります。
真の神を父としていない、信じていない実がこれらなのです。
つまり、真の神を信じていないなら真実に御名があがめられますようにと祈る事は出来ないのです。だから、自分の栄華、栄光を求めて生きてしまうのです。
真の神を父としていない人々の父の姿(悪魔)の姿が以下にかかれています。
イザ
14:11 あなたの栄華とあなたの琴の音は/陰府に落ちてしまった。うじはあなたの下に敷かれ、みみずはあなたをおおっている。
14:12 黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
14:13 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
14:14 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。
14:15 しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。
かつては栄華を極めたような存在の天使であったが今は地に堕ちた存在の悪魔。
その心の求める所は「自分の栄光」
「祝福されたいから」「成功したいから」「世の中で良い地位を得たいから」と思ってイエス様を信じている人はいませんか?ひょっとしたら、それは、新興宗教と変わりないのではありませんか?
その心の願いは単なる「自分の栄光」を求めているだけではありませんか?
偽善者は高められるのが好きです。しかし、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。と書かれているように、主は、隠れた事を見て報いてくださるのです。隠れたところに人は本性を持ちます。隠れたところの、あなたの真実である信仰は、偽物であってはなりません。本物でなくてはならないのです。
神様の目はいつもあなたに注がれています。
イエス様は仕えるために来られたとおっしゃっています。
教会でもし、職分があっても、それは、仕えさせるためのものではなく、仕えるためのものなのです。主に仕えたいという思い、願いがあるでしょうか?
そこに、主にある喜びはありますか?
主の御心をお聞きする姿勢がありますか?それに従う信仰がありますか?
神の御名、栄光を真実に求めることのできるクリスチャンは本当に感謝ですね。
だから、御名があがめられますように、御国がきますように
と真実に御国を求めるものに与えられるのが、
ルカ
12:31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者
マタイ 25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
私たちは 幸い 聖書を読むことができ 何度も繰り返して読んでいるので
少しは他の人より 御言葉をよくしっているかもしれません
ある意味私たちは とるに足らぬものと思っているかもしれませんが
ある意味 金持ちなのです
では どうでしょう
空腹 かわいている 宿を貸し 裸なのを見て着せ 病気をし 獄にいる
このような人 とは どんな人でしょう 最近 おなかが減った 人や家のない人も見かけません もちろん裸で歩いているのは 変体か 気が変になった人たち です。
病気の人は います 牢屋にいるような 前科ものは あまり 私の周りにはいません いても どこの 牢屋にいるのだろう と言うような感じで ぴんときません
そこで
空腹 かわいている 神からの霊的なもの 御言葉に餓えている人
宿を貸し 寄留する 教会や仲間のない人
裸なのを見て着せ 神の御心はしらず恥さらしな事をしても 気付かぬ 人
病気をし 獄にいる 霊的に病んでいたり 正しい事をしているのに囚われている
もしくは この世の囚われの身となっていて
悪習慣の抜けない人たちと読めるかもしれません
と言えばよく分かります。このような人たちを サポートしているか と言う事が重要です。つまり へりくだり この人たちに目線を合わせ 忠告しなさいと言っています。
普通教会などでは この人たちを 許しなさい とよく 言いいますが 許すだけだと
なにも 変わりません つまり 裸の人に 服を着せてない のです 恥さらし にしてほっているのです。
そのままに しておけ と言っているのと 同じです。
つまり へりくだり 忠告 し服を着せ 恥をさらさないようにしていない 事に 気がつかなければ ならない のです。
このメッセージでのポイントは へりくだる と言う事と 忠告する という 事です。
許すと言うのは 本当の意味で言えば 都合のいい 言葉です 本当は相手を見下しているので 許す と 言っている場合が多いのでは と思います。
キリストのように 神の子でありながら 大工に 生まれてくるような 謙虚さを身に着けたいものです。
命の木と信仰の勝利者
黙 22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす
詩
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
勝利者とは 昼も夜も その おきて (神の言葉)を思い 絶えず神の霊(川や流れ) に満たされ
枯れることなく 実を結ぶ それも 12種類 (神の民 義)の実を 結ぶ
黙示録 の 節 と 詩篇の節は かなり 関係が 深そうです。
簡単ですが 毎日聖書を読み それを 繰り返し 反芻 することに より 実を 結ぶ と 言っています。
多少信仰経験が必要かもしれませんが
日常生活をしていると 世の煩わしさに 悩まされ あれこれ 解決方法を 模索しますが
実を結ぶのは この方法 しかありません。
今までの経験で過去 において 解決方法を考えたり ビジネスセミナーなどの対策など しましたが
一過性のもので さほど 実を結ぶと言うことは ありませんでした。
実ったとしても 食するに値しない この世の 実 でしかありません
主の祈り には 今日の糧を 与えたまえ しかありません
後は全自動なのです
いままで この様な 御言葉
神の義を 求めなさい そうすれば必要なものは与えられるでしょう
というような 御言葉は 何度聞いても この世の方策であったりしました
しかしながら 今回 確信に至りました 信仰を強く持つことです。
あらゆる問題にも すでに 解決策が 用意 されています。
何事にも わずらっては いけません。
貴方が 神の義に立つなら
煩いごとは たいてい こけおどし です。
一見雰囲気が悪いだけで チンピラの様に 見た目が恐ろしいだけで 中身は空です
教会などでも 何人の 信徒が与えられますように とか 目標を 何人にしろとか
献金を いくら 集めてこい とか この様な祈りをする 人たちは
義の道から 離れている から 尚いっそう 求めるのでしょう
その様な 人は 二心だからです。
毎日必死で祈り 教会を立てあげてこんなに 立派になりました などという 者は
良く吟味しなければ この世の ものであり 神のものでは ないかも しれません
まさに二心です。
何時間もこの様な 事をくどくど 祈るのは 異邦人のすること である と 聖書は言っています。
又会堂で いのるな 部屋に入り戸を閉めて祈れと 聖書は言っています。
どうでしょうか 思い当たりませんか
教会に 集まり 自分たちの 事を 成就させようと 何時間も 会堂にあつまり 祈っていませんか?
まさに 聖書と反対のことを やっている ことに 気がつくべきでは ないでしょうか?
私たちは 必要のために 使わされていますから その様にしていれば
必ず 実を結びます 忍耐が必要なだけではないでしょうか 待ちましょう。
なぜ、祈るのでしょう どう祈るのでしょう?
なぜ、祈るのでしょう
父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要な物はご存知なのである。と書かれています。
我々の宝がどこにあるか。これが大事。もし世にあるなら、世のものを求めるでしょう。
マタ
6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
これに尽きる。この原則に伴わない祈りはすべて空しい。
では、こればっかり祈って他の事を祈らなくてもいいの?と言われる方がおられるかもしれませんね。
言葉だけでとらえてはなりません。この短い祈りの中に神の意図が隠されているのです。
この祈りにもとずかない祈りは空しいのです。
例を挙げるなら、お金持ちにしてください。
これは、ダメな事はみなさん簡単にわかりますね。
では、教会に献金するためにお金持ちにしてください。
これならどうでしょう?
神は私たちに恵んでもらわなければやってゆけないお方ではなく、全知全能なるお方です。
勘違いしてはなりません。
しかし、勘違いした祈りがどれ程クリスチャンに多い事でしょう。
ですから、その祈り手の心がどこにあるのか?これが重要。
我々が願うのは、御心が天で行われるように地にも行われます様に。
御心でしたら・・・これが重要。
自分の欲望ではない。神の御旨。これを願うべき。
つまり、主の祈りがベースとなった祈りでないといけない。
また、祈りは人に見せたり、認められたりするものではない。
祈り表を提出するから祈るなんてもってのほか。
そんな祈りは意味がないのでは
神に祈るのです。間違えてはならない。
自ら、心から出る真実な祈りを主は求めていらっしゃる。
無駄な行動が多かったのでは?
自分の栄光を求めるべきではない。ただ主の栄光!
また、赦すことについて。
頭にくることはあるでしょう。
しかし、主にゆるされた事を考えるなら、その主が
マタ
6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
と仰った。ゆるさない事怖いとおもいませんか?
我々は日々主にゆるされながら生きているのです。裁きは主がなさいます。
自分で復讐するのではなく、主に委ねましょう。
過ちを犯さない人はいませんから・・・私たちはただ一つ一つ主に従いましょう。
今回3月21日に件も、普通に考えるならありえません。しかし、ここに主の介入がある事を信じ、主が信じる者には最善をくださいます。主を信じましょう。そしてレムナントのメンバーに対しては善をおこなう事を控えてはなりませんから、今回、谷川氏は警告の文を書きました。我々はレムナントを追い出されましたのでもう戻らないでしょう。しかしメンバーが命を失うかもしれないのに手をこまねいて見ててはいけないでしょうから警告の角笛?を鳴らしておいたのです。
黙 21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
はっきりと神に示されたとエレミヤ師の提唱する2010年の暗号が2010年に起こらなかったなら、教会から偽りになるべきものを取り除かなければならないのです。なぜなら、偽りを行うなら滅びるからです。
箴 10:32 正しい者のくちびるは喜ばるべきことをわきまえ、悪しき者の口は偽りを語る。
自分の願望ではなく主に喜ばれる事。命を得ることを語らなければなりません。
我々も悪しきものにならないため偽りを語るものと共に行動してはならないのです。
また、どこに心がありますか?
知らないうちに騙されてはいませんか?
マタ
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
結局我々が祈る内容は少々バラエティーに富んではいても、25節以下の内容を手変え品変え祈っているでしょう
寿命は健康につながるし、着物、お金、これらはそのまま祈る場合もあれば、仕事や、名誉的な物もあるでしょう。この事については
マタ
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
だから、心がどちらにあるのかが重要。神を信じる我々はまず先に
マタ
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
世の終わりについて聖書に書かれた事が成就していっています。
主がいつ来られてもよいように祈り、聖書を読み、聖霊により頼み、我々は用意していましょう。主が来られた時、主の目にかなう我々であるように、
我々は、主に喜んでいただける信仰を主に祈り頂きながら生きてゆきましょう。
乳と堅い食べ物について
聖書 神の言葉 聖霊による キリストによる 啓示
↓
牧師や預言者 メッセージをする人 それぞれの信仰に応じ 料理し わかり易い ように 話す。
1コリント
3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。5:11 このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。
5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。
5:13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。
5:14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。
本日は乳と堅い食べ物についてメッセージさせていただきます。
上の説明を見ていただければ解りますが
神の言葉を教会などで語られるとき それぞれの信仰にあわせて 御言葉を料理し
あるものには 乳(幼子に飲ませるもの)
あるものには 堅い肉 と 分けて語られています。
では ここで 何が問題であるかと 言いますと 料理の段階で 毒が入っていたり
ぱん種 が入っていること を 警戒せねばなりません
昨今の教会では 人につく 御言葉 として 料理されています。
このような 物を 御言葉として受け入れていたり 曖昧にすると 自ら 霊的死
に陥ります。見分ける必要が ありますが 今では ほとんどの 教会では 無理になってしまっています。
今は ほぼ 終わりのときです 何故なら 乳飲み子を持つものは災いである と言っているからです。
そのとき が冬でない事を 祈れ とあるのは
冬には まったく 収穫が ありませんから まともな 御言葉 は なくなる といっています。
私は まさに そのとき は 今であると思っています。
まともな 御言葉の糧 麦が 一枡 一デナリ なのです わずかになり 高価 なものに なり
なかなか 探し 得ません。
大切なのは 直接キリストの掲示によるもの(堅い食物)が必要であると言うことです。
※聖書の暗号を混ぜ物 とした例 毒入り メッセージ
強調 の部分に 大事な関係を 聖書の暗号から と 結論づけています。
教理になってしまった 毒入り です 一見 まともな メッセージですが
毒が盛られていることを 見抜く者は 幸いで あると言えます。
聖書の暗号もアメリカ発だと思いますが
(ワシントンポスト』紙の元記者であるマイケル・ドロズニン)
涙とともに種を蒔くものは自分たちと言いたいのでしょうが
批判されているのは 聖書の暗号の 預言が 大外れ だからです
外れたのを苦し紛れに修正していますが そんな いい加減なものを 神からの 示しと いっている
愚者です。
預言が成就しないのは 自分でも偽預言者の証と言っています。
以下エレミヤ氏のメルマが 黙示録を読む
mokusiroku第4121号より引用
確認↓
『引用』とは、著作権法第32条に、「公表された著作物は,引用して利用することができる。この場合において,その引用は,公正な慣行に合致するものであり,かつ,報道,批評,研究その他の引用の目的上正当な範囲で行なわれるものでなければならない。」と定められています。
==================================================================== □□□□□「黙示録を読む」□□□第4121号 2011/4/19発行(毎週火曜日発行) ==================================================================== ■■■「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いてそこに書かれているこ とを心にとめる人々は幸いである」黙示録1:2■■■ ===================================================================== □□□今週のもくじ□□□ (火曜版) ◆ NO.633涙とともに種を蒔くものは=======================================================================
みなさん、こんにちは。エレミヤです。
おかわりありませんか。======================================================================
NO.633
涙とともに種を蒔くものは
”テキスト:
詩編126:0 都上りの歌
1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。
2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのと
き、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。
4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。
5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
==================================================================================
本日は、涙とともに種を蒔くものは
という題でメッセージをしたいと思います。上記みことば、涙とともに種を蒔くものは
、というみことばは、伝道、みことばの種を蒔くことと関連してよく
いわれます。そういう意味合いもあるかもしれませんが、よく
見ると少し、異なった意味合いが見えます。そのあたりを見たいと思います。テキストに沿って見ます。
”
1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。”捕われ人とは誰かと言うと、たとえばバビロンへ捕囚された人々です。
彼らが解放され、エルサレムへ戻ってくる、それは、
すばらしい日です。しかし、そのことと下記の涙とともに種を蒔くこととが何の関係があるのでしょうか?
”5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
これらは一見何の関係もないかのように見えます。
しかし、よく見ると、実は大事な関係があるようです。
かつての日のバビロン捕囚、それは終末の日に起きる、バビロン、アメリカと関係あります。
何故アメリカがバビロンであると断定的なことをいうかというと、
聖書の暗号が、そう語っているからです。
現在のキリスト教会の世界のリーダーは、アメリカであり、あらゆる
ヨタ教理、嘘話、オカルト的な空想教理、悪霊リバイバリストどもは皆、
アメリカを起点として、起きます。アメリカこそ、現代のバビロンであり、この国を起点としたオカルトキリスト教教理、
終末嘘話をうのみとしている人々は、みなすなわち「捕われ人」なのです。
彼らの霊的な実質はバビロンに捕らわれ、捕囚された人々なのです。彼らが艱難前、中携挙説だの、ヨーロッパが獣の国であるとか、アメリカは聖書に出てこない
だとかの
嘘話が本物のように見えることはすなわち、既にバビロンに捕えられているからなのです。
またあのベニーヒンを始めとした悪霊リバイバリストの霊が神からのものと思えるということ
は、
すでにバビロンゆかりのぶどう酒に酔っているからといえます。彼らは捕われ人なのです。
さて、この様におかしな教理に捕らえられ、
すっかりバビロンに捕囚された人々を解放するてだてはあるでしょうか?
おかしな教理に惑わされ、それが正しい教理であるとすっかり信じ込んでいる人々を救い、
バビロンに捕囚された人々を解放するには、どうすれば良いのでしょうか?その答えこそ今回のテーマである「種を蒔くこと」なのです。
おかしな教理、毒麦が行き渡った畑に良い麦を育てようと思うなら、何はともあれ、
良い麦の種を蒔かなければなりません。
艱難前携挙説が間違っており、バビロンゆかりのヨタ教理であることが理解できたのなら、
それは偽りであり、正しい終末の教理はこうであるとして、正しいみことばの
種を蒔かなければならないのです。また獣の国はヨーロッパであるなどとのバビロンゆかりの嘘教理に
とりこになった人を解放するためには、聖書に基づいて、
アメリカこそ、その獣の国であるとの教理を蒔かなければならないのです。たとえその種まきが非難されようと、苦難があろうと、やはり、
種を蒔き続けなければならないのです。そして、続けた人はある日、その
結果を見ます。”主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。”
強国バビロン、ライオンにたとえられるあのどうもうな国に捕らえられていった人々が
戻ってくる、解放されて来ることを望むのは絶望的です。
まずありえないことなのです。
しかし、それがまのあたりに実現した時、詩編の作者は、「私たちは夢を見ている者のようで
あった」
とその驚きを語っています。このことは今の時代も同じであり、あのアメリカ、現在のバビロンであるアメリカゆかりの
嘘教理の力は強く、誰も彼も嘘教理を後生大事に抱えています。
これこそ本物の教理として、すっかり捕らえられているのです。彼らが正しい教理に戻って来ることはほぼ絶望的にさえ見えます。
しかし、主が奇跡を起こせばそのあり得ないことも起こります。だから、「私たちは夢を見ている者のようであった。」といえるのです。
”2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのと
き、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。”
バビロンに捕らえられた人が戻ってくることなどあり得るのでしょうか?
万軍の主がなさればそれは起きます。ではあのバビロン、アメリカゆかりのヨタ教理にすっかり骨の随迄、洗脳された人々が
戻って来ることはあり得るのでしょうか?やはり万軍の主がなさるなら、それは起きるでしょう。
というより、私達はそれを見ています。
私達はもう10年以上もこのようにしてネット上で種を蒔き続けています。
バビロンゆかりのヨタ教理に対抗すべく正しい種を蒔き続けているのです。その中で、正しいみことばに戻ったという人々の声を聞いています。
艱難前携挙説の誤りから立ち戻った、その呪縛から、立ち返ったという人々のことも聞いてい
ます。
”4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。”
ネゲブとは南という意味です。旧約の北イスラエルは今のカソリックに相当するでしょうか、
また
南のユダは、今のプロテスタントに相当するでしょうか。
旧約の都の回復は南のユダのエルサレムからでした。
同じように終末の日のバビロンからの解放も南、すなわち、プロテスタントから起きるでしょ
う。
”5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。”
何故種を蒔くのに涙を流さなければならないのか?
いくら田舎へ行っても泣きながら種まきをしている人などそうそう見当たりません。
だから、この涙とともに種を蒔くということは、何か特別なことであることがわかります。
そして、その涙のわけは、その種、バビロンに対抗する種は人々の反発と憤りと異端扱いをも
たらすからです。その種を蒔くことは苦難を呼び寄せることであり、その種や教理は人々の怒りをひき起すので
す。
種を蒔く人への攻撃や、非難がわきあがるのです。
でも種を蒔き、種を蒔きつづけるなら、ある日、実を見、また、バビロンのヨタ教理から
解放され、捕囚から解放される人々を見るのです。私達は何度か黙示録のセミナーを開きました。
その中で、多くの捕囚から解放された人々を見ることができました。多くの偽りの教理やら、バビロンのぶどう酒すなわち悪霊リバイバルから解放された人々を見
ることができました。確かにこれらの種を蒔く時、多くの涙があったのですが、今、喜びとともに
育った穂を刈り取ることができたのです。”
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
たとえ、種を蒔く時、涙があり、泣きながらその奉仕をしたとしても
その結果を見、捕囚から帰った人を見、喜び叫びながら、帰って来ることができるのです。
これからもこのこと、正しい種、みことば、教えを続けていくなら、
その種まき、戦いは涙をともなうものとなるかもしれません。しかし、いずれ私達は、その結果を見、喜び叫びながら、帰ってくるようになるでしょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー
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◆このメルマガのHP内「エレミヤの部屋」に終末預言に関するメッセージ
を毎週新しく載せています。========================================================================================
このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』
を利用して
発行しています。( http://www.mag2.com/ )
その知性も良心も汚れてしまっている
テトス
1:14 ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。
1:15 きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。
1:16 彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。
今日は 汚れているものは 何一つ清いものは無い という メッセージです
皆さんは クリスチャンや 教師を この人は ここは すばらしい が
ここは いただけない と思った事は無いでしょうか?
間違いなく その人たちは 教会のメッセージや 振る舞い の中では 素晴らしい でしょうが
必ず二心であると 言えるでしょう 行いや 何気ない 言葉に
人を 見下げていたり 嘘を言っていたり そういう 雰囲気
を 感じ取れるはずです。
簡単に言えば 偽者です
このような人は
汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。
と書いてあります。
他のメッセージや 長年の研究の成果が素晴らしくても 何一つ 清いものは 無いのです
中途半端に し 上着を 取りにはいれば 巻き込まれ 一切の技に対して 失格者
となります。
曖昧にしては いけません 曖昧にすれば それこそ 自分の命 を 失うでしょう
先月の地震でも 津波が きているにもかかわらず
一波 が 弱かったため 家に 物を 取りに入って 次にきた 大津波にさらわれた 方
が いると 聞きました
その様に 曖昧な 態度をとり 見過ごすことは 大変な後悔になるのでは と 思います。
聖書の暗号とやらを 御言葉の 混ぜ物とし 惑わす者は 何一つ 清いものは ありません
まだ 無いほうが ましでは ないでしょうか?
ですから 即刻 避難 すべきです。
この様な偽者を好む者は 自浄能力がなく 自分たちが正義であると言います。
聖書の暗号とやらを教理にする人たちは 預言が成就していないのも 関わらず
まだ 反省がありませんし屁理屈をこねています。
ガラテヤ
1:6 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。
1:7 それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。
1:8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。
1:9 わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。
1:10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
1:11 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。
1:12 わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。
1:11 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。
1:12 わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。
御言葉は この様な 汚れた 教師から得るのではなく イエスキリストの啓示 に よるべきである。
惑わさせない ように していただきたく 思います
足を洗うことの意味
ヨハネ 13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。 13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 13:8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。 13:9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。 13:10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。 13:11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。 13:12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。 13:13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 13:14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
足を洗うとは 足は地に付くところであるから この世に生活していれば チリ がつく チリ と言えば少し
であまり重要でないようにおもうかもしれませんが
その汚れは 洗い落とさなければ キリストと関わりがなくなる と言っているのです。
ですから この世の交わり により 汚れそのままであるなら 死に至る と 言っているのです。
ペテロは それを理解できていなかったので 手も体も洗ってくださいと 言ったのである。
しかし 注意が必要なのは クリスチャンは 清められ きれいな体なのだが この世に交わる チリ
汚れた足は 洗えと言っています。
ここでは 謙虚さばかりが 言われますが 本質は世の汚れを 洗い清めよ という 事が重要な意味であると思います。
洗い流し 水 聖霊により 清められるべきである
神の武具とは
エペソ 6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 6:14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 6:15 平和の福音の備えを足にはき、 6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 6:18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。メモみたいな感じですみません
真理の帯 ゆるがないもの
正義の胸当 裁き 正義 とはイスラエル12部族をあらわす すなわち神の民=神の儀 と言う意味
福音の備えを足にはき
信仰のたて 悪しき者の放つ火の矢を消す
救のかぶと
御霊の剣 御言葉をあらわす
今の世の中 偽りが多く 最期まで 戦い抜くには このような ものが 必要ですが
特に正義の胸当てに関しては 正義は神の民をあらわす すなわち キリスト信じる事が 神の儀であり
キリストを通さなければ 道徳的な事を 論じても 儀は無いということ を 知る必要があるのでは
福音の備えを足にはき
足は地に付くところである ゆえに この世とかかわりを 持つところです 福音の備えを 足に履くとは
地に付くことが無いように 福音の靴をはく ということである
御霊の剣 は御言葉 であるが 聖書をよく読む必要がある
たとえ話 が重要である 一見 二義的 な たとえ話の 理解の ほうが 重要なケースがある
マタイ 13:35 これは預言者によって言われたことが、成就するためである、「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」。
多数決で 決定すべきか?
多数決は何かを決める時には便利な方法ですが、
クリスチャンとして神の方法や御言葉に多数決を取り入れるなら、
それは神とは何の関係もなくなってします。
聖書のエピソードを見てみましょう
列王上18章
列王記22章においても400人の預言者と一人の正しい預言者
イエスキリストが十字架にかかられる時も果たしてどれだけの人が
イエスの側についたのだろうか?
殺そうと企んだのは律法学者、パリサイ人
、つまり、当時の偉い人たちではなかったか?
十字架につけろと叫んだのは群衆ではなかったか?
エピソードとしても結構書かれている。
我々は人数や、地位の高い人が言ったから正しいのではなく
聖書はどうか考えなければならないと思う。
億の物件を取られたという人物がいて訴えてきたなら、
なぜ、納得ゆくまで話し合えないのか?というより、
そのような献金は受け取らないのが神に仕えるものではないだろうか?
神は信者が悲しむような献金を受けないとやってゆけないお方ではない。
そのような事をするのは言いすぎかもしれないが
神の霊ではなく違った霊に支配されている人間。
聖書の言う「御霊の実」がどこにあるのか。
この様な問題が明らかになっているのは警告ではないか。
【口語訳】ルカ 8:17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、
秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
今問題が明らかになってきた牧師達。彼らは本当に神を信じているのだろか?
今、隠されていたものがどんどんあらわになってきた時代ではあるが、
正しく情報を知り、危険な教会であるなら被害の少ないうちに
離れることをお勧めする。
何よりも聖書を基にクリスチャンは信仰生活をしてほしい。
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