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他からの教会への警告 Archive

救われたら天国ですか

今時のキリスト教はイエスに救われれば 即天国であると 言われています。
本当でしょうか? 私が 変なことばかり 言っていると 思われるなら 
聖書をよく読んでほしい、

聖書には 信仰によって救われる 。
又信仰を種 と例えている。 良い地に落ちた種 の例え 実を結ばない木を農夫が管理人にもう一年 猶予を求めている 実を結ぶまで 実を結ばなければ 木を切ると 言われた。刈り入れ の話もある 愚かな乙女の話  その他 きりがないほど である 
 救いに預かるのは 恩寵 であるが 信仰による 行いにより 実を結ばなければ 裁きに会う と言っているのである、
アブラハムを見れば解る のである信仰だけで はなく イサクを献げに モリヤに行った 信仰による 行いがあって 義とされたのである。 すなわち 信仰と行いは 自然と 伴うのである  (ヘブル書)

ですから 信仰により 実を結ばなければ 裁きに会うと 聖書は言っているのである
この事は 中学生程度の読解力があれば これは 理解出来ることである。
しかしながら 多数の牧師達は 目が見えなく なっているので この事は 言いません 放置すれば 地獄への 道案内を している 事に なります。

ですから これを お読みのクリスチャンのかた は 信仰による実を結ぶことを 考えてください。

ハリーポッター

ハリーポッターは知らない人が いないぐらい 有名なものがたりである
しかし 魔法を利用し キリスト教への 理解を 変えようと子供を利用している
物語の出所はオカルト傾倒者リチャード ポッターの書いた小説にある
彼はフェビアン協会の創設者ベアトリックスボッター の父親であり
子供に オカルトを吹き込んでいるのである。
どくろ なども良く出回っているが 子供に 縁起でもない このようなオカルト 話を 教えるのは明らかに もんだいである。

26聖人を思う

26聖人をご存じですか慶長元年(1596)12月19日、豊臣秀吉の命により、京都・大阪で捕らえられた キリスト教信者20人とバテレン6人が長崎で処刑されました。
日本で最初の殉教者です。 26聖人についてはhttp://isidatami.sakura.ne.jp/26seizin.htmlに詳しく書いてあります。純粋な信仰者でクリスチャンの鏡のような人たちである。秀吉は時の権力者で むごい事をしたものである 彼等を始め 後々むごたらしい 拷問に耐えながら 信仰を貫いた 人たちの信仰の勝利を たたえるべき であると 同時に 自分の信仰を確認したくなるのである。
この話で私は2つのことを 思うのです。2つの事柄は

1 殉教者はになるためには 根性があれば自分にその根性があるか よく再確認していましたが 彼等を見て思う事は 殉教するように選ばれし者であると言うことである、激しい拷問を受け尚信仰を貫けた のは 人の勇ましい 根性だけでは 無理なことで 弱音をはくのが 普通であろうこの様な状態で信仰を貫けるひとたちは紛れもなく選ばれた人たちで殉教のたまものというべきだろうか この事は 次の話に関係する。

2当時のカトリックは 植民地支配と 布教を セットで 各国に 宣教師たちを 送り出していました キリスト教を土台にして 権力者を 陥れ植民地にしようとするものです ですから これを見抜いた 秀吉はクリスチャンを迫害しました キリスト教は彼等の手先と 考えたからです。私はこのぎせいになった(26聖人のような純粋な信仰を持った人たち又後々の殉教者たち )この血の責任は カトリックにあり 罪重く 許されるものでは無いと思う。当時の棄教した神父たち この植民地支配の裏話を知って
いたがゆえに 信仰をつらぬけ なかったのでは ないかと 推測します。
神にふるいにかけられたのでは とおもうのです。


物事には裏というものがあり よく確認しないと とんでもない事になります。
秀吉は残忍な迫害者ですが もっと 残忍な 人たちが背後にいたことを知るべきです。

氾濫するサタンの指サイン ダイゴ

最近だいごという ひとが ウイッシュといい 指サインをしているが どんな 意味があるか ご存じでしょうか これは サタンの儀式のサインです
このような きけんな 魔術の指サインを普通の人にわからないように させているのです 又最近スカル 骸骨のデザインもよく見かけますがこれも 同様に 大衆に サタンの影響力を忍び込ませる 手段のひとつですこのサイトでも 同様にベニーヒムというひとが 同じサインをして 奇跡を起こしています これはまさに サタンの力です

 

あるクリスチャンの集まりのリーダーはこれは 手の癖 だといいました が このような 自然にはしにくい サインを わざわざ するには 無理があるように 思います

又御言葉を重んじない人は このような警告をしたにもかかわらず 見下した言い方で  調べもせず 否定してきます
自分は リーダーであり みんなを導く責任があるにも かかわらず
調べもせず サタンのみちへと 導く死への案内人であると言えます

このサイトで説明しているように 御言葉から あきらかであります
このような真実を知るなら このようなアホを 招くのを やめさせることです。

ではどうして このような 者を主は放置されるのでしょうか それは↓を参照すれば わかることであります。かれらによれば 主にたてられたので 主が裁かれると言うが
そのとおりである しかし そのままでは彼らが 裁かれる 対象に なりかねない。

13:28 主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。 13:29 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。 13:30 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。


新しい聖書の読み方(正しい)前書き

このタイトルだと 何か やばい 宗教団体でも創設されるのか と 思われますが。
そうではありません この話をする前に この説が 正しいといえる 前提を 示してゆきたいと 思います。
キーポイントになるのは 

ペテロの手紙第二 1:20
"それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
"
私的解釈とのことですが この役は原文から見ると 正しい訳とはいえません
原文では それ自身の解釈を施してはならない と 言うのが正しい訳です。

私的解釈をしては ならない ーーーー  それ自身の解釈を施してはならない
は逆の意味になります。
私的解釈をしては ならないでは意味は一つだけか決まったことだけ と言うことに
なります。が それ自身の解釈を施してはならない では 他のところを参照して
意味を吟味して 解釈せよ と言うことになります。

原文
1:20 touto prwton ginwskontes oti pasa profhteia grafhs idias epilusews ou ginetai

1. 「私的」と訳されているギリシャ語idiosの第一義的な訳は「~自身」という意味である。
2. 英語聖書の中ではもっとも忠実な訳といわれるJ.N.Darby訳でもこの箇所は「それ自身の解釈を施してはならない」と訳されている。

さて、上記点をもう少し詳しく見ていきたいと思います。

1.について:

このidiosというギリシャ語の意味は辞書によると以下の通りです。

AV - his own 48, their own 13, privately 8, apart 7, your own 6,
his 5, own 5, not tr 1, misc 20; 113

この語は新約聖書の中で合計113回使用されています。その中でもhis own(彼自身)48回、their own 13回、 your own 6回、 own5回のように「~自身」という用法が多いことがわかります。
privately 「私的」という用法も8回ありますが、第一義的な意味ではないことがわかります。ですから、この単語の原語の意味を正しく反映させるつもりなら、「~自身」という意味あいを全くいれないのはおかしなことになるのです。

2.について:

私はOnline Bibleという英語の聖書ソフトを使っています。そこにいくつか英語訳の聖書が入っています。その中のJ.N.Darby訳についてこのOnline Bibleは「英語訳の聖書としてはもっとも忠実な訳。KJV訳以上に忠実に訳されている」と紹介しています。そしてこのJ.N.Darby訳にはこの箇所が、「すなわち、聖書の預言はみな、それ自身の解釈を施してはならない、ということです。」と訳されているのです。

ですから、この箇所を「私的解釈」という訳でのみ、きめつけるべきではありません。少なくとも、「それ自身の解釈」と訳すことも可能であることを認めるべきだと思います。

"idios"という語の使用箇所

さて、この原語、idiosということばが実際に聖書の中でどのように使われているか、見てみましょう。これらを見ていくなかで、この原語の意味あいが判明してくると思います。例として、マタイ伝で使われているこの原語を全てあげてみます。

1. And he entered into a ship, and passed over, and came into his own <2398> city.(Mt 9:1)

イエスは舟に乗って湖を渡り、自分(自分自身) の町に帰られた。(マタイの福音書 9:1)

2. When Jesus heard of it, he departed thence by ship into a desert place apart <2398>: and when the people had heard thereof, they followed him on foot out of the cities.(Mt 14:13)

イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。(マタイの福音書 14:13)

3. And when he had sent the multitudes away, he went up into a mountain apart <2398> to pray: and when the evening was come, he was there alone.(Mt 14:23)

群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで(離れて)山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。 (マタイの福音書 14:23)

4. And after six days Jesus taketh Peter, James, and John his brother, and bringeth them up into an high mountain apart <2398>,(Mt 17:1)

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に(離れて)導いて行かれた。(マタイの福音書 17:1)

5. Then came the disciples to Jesus apart <2398>, and said, Why could not we cast him out?(Mt 17:19)

そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに(離れて )来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」(マタイの福音書 17:19)

6. And Jesus going up to Jerusalem took the twelve disciples apart <2398> in the way,and said unto them,(Mt 20:17)

さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。(マタイの福音書 20:17)

7. But they made light of it, and went their ways, one to his<2398> farm, another to his merchandise:(Mt 22:5)

ところが、彼らは気にもかけず、ある者は(自分自身の)畑に、別の者は商売に出て行き、(マタイの福音書 22:5)

8. And as he sat upon the mount of Olives, the disciples came unto him privately <2398>, saying, Tell us, when shall these things be? and what shall be the sign of thy coming, and of the end of the world?(Mt 24:3)

イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイの福音書 24:3)

9. For the kingdom of heaven is as a man travelling into a far country, who called his own <2398> servants, and delivered unto them his goods.(Mt 25:14)

天の御国は、(自分の)しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。(マタイの福音書 25:14)

10. And unto one he gave five talents, to another two, and to another one; to every man according to his several <2398> ability; and straightway took his journey.(Mt 25:15)

彼は、おのおのその(自分の)能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。(マタイの福音書 25:15)

(*上記の英訳の引用箇所で、<2398>とあるのは、"Strong's Exhaustive Concordance of The BIBLE"のギリシャ語 Word Numberです)

上記のように、このidiosということばには、「自分自身」「それ自身」「(他と離れて)自分で」という用法が多いことがわかります。このことばはそもそもそういうニュアンスのことばなのです。上記マタイ伝の箇所で一箇所だけprivately(私的)と訳されている箇所があります。以下の箇所です。

Mt 24:3 And as he sat upon the mount of Olives, the disciples came unto him privately <2398>, saying, Tell us, when shall these things be? and what shall be the sign of thy coming, and of the end of the world?

マタイの福音書 24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

ここでは「弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った」のです。そして、この箇所の用法にも「~自身」というニュアンスが含まれていることがわかります。

結論として、くり返すようですが、このidiosということばのもっとも基本的な意味あいは「~自身」という意味です。

ですから、この原語が使われている上記ペテロの手紙のテキストは「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、それ自身の解釈を施してはならない、ということです。」と訳すのがもっとも、妥当と思えます。

「私的解釈」と訳すのが間違いではないにしても、第2義、第3義的な意味あいです。まして、「私的解釈」以外の訳を認めないというのは、聖書をねじ曲げることになります。

新解約の問題点 メシヤとキリスト


1ヨハネ2:22 「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

TNIV訳聖書とキリスト
Terry Watkins Dial-the-Truth Ministries

マタイ27:22「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」

他の計画的、かつ混乱した誤訳聖書のことばは、ギリシャ語でいう「Christos」ということばである。
ギリシャ語の"Christos"は、常にキリストと翻訳(というより、現実には文字を移し替えただけの訳)される。
実際に主イエスキリストは、説教者、教師、クリスチャン、世界中の人々により、主またはイエスというよりは、「キリスト」と呼ばれる。
主イエスキリストに従う人々は、クリスチャンと
呼ばれる。これは、主イエスキリストとそれに従う人々にとっては、
全く常識、標準である。

「弟子達はアンテオケで始めてクリスチャンと呼ばれた。」
使徒11:26

TNIV訳の翻訳者は、意図的に"christos"というギリシャ語を「メシヤ」と69回も、
誤訳した。

興味深いことは、ウルトラ自由主義的であり、エキュメニカル、ローマカソリク、
(外典を支持する)、NCCが著作権を持つ、フェミニストにより是認され、両性を含む、NRSV
(N ew Revised Standard Version )もまた、キリストとメシヤとを66回誤訳しているのである。

アモス3:3「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。」とのことばの通りなのか。

Zondervan出版社が、フェミニスト、性包含である、New Revised Standard Version (NRSV).をも
出版したからといって、もはや誰も驚かないであろう。

一体どうして、TNIV 翻訳者は、明白でかつ正確な「キリスト」の代わりに
「メシヤ」を使用したのだろうか?
TNIV訳聖書の序文には、以下の理由が書かれている。

「TNIV訳における2つの変更に関する注意事項は、伝統的なキリストの代わりに
メシヤということばを頻繁に
代替させていることである。
ユダヤ人が期待しているところへ、
神が送られたという意味あいでことばが明確に使用されているところでは、
. .(特に福音書、使徒行伝)メシヤということばを使用することが望ましいと判断した。
しかしながら、この感覚があまり顕著でない場合、(特に
書簡)ギリシャ語からの字訳(キリスト)を残した。

(TNIV, 序文, p. viiより)

この記述の中でまず始めに、「さらに伝統的なキリスト」のくだりは、
誤導するものである。このことには、「伝統」は関係ない。
単純な事実は、ギリシャ語のことばはキリストスもしくはキリストであるということである。
平易かつ単純な話である。
正しい翻訳(字訳)はキリストなのである。
2つ目に、TNIV訳翻訳者は、明確なギリシャ語の本文がキリストであるにもかかわらず、
「メシヤを使用するのが、より妥当である」と判断したのか?
それは意図的に道を外すことである。
TNIV翻訳者は、ギリシャ語テキストを捨て去り、それをさしかえることを「風がどう吹こうと」
すでに決定しているのである。

2つの単語、キリスト及びメシヤは、ともに新約に現れる。そして、
メシヤということばは、たった2箇所にしか出てこない。
. ヨハネ1:41と4:25である。
このことは、KJB, NIV, RSV, NCV, NASB, 等の翻訳においては事実である。
これらの訳では2箇所にしかメシヤが出てこない。何故か?
単純なことである。ギリシャ語の単語が、"messias:メシヤと書いてあるからである。

ただ、これらの箇所のみが新約聖書において、messias:メシヤが使用されている、
箇所である。それらの箇所、
ヨハネ1:41とヨハネ4:25の箇所を見ることは、
大変示唆的である。
思い出して下さい。ヨハネ1:41とヨハネ4:25とは、新約聖書中、
「実際に」ギリシャ語のmessias:メシヤということばを含む、唯一の箇所であることを。

John 1:41, KJB
He first findeth his own brother Simon, and saith unto him, We have
found the Messias, which is, being interpreted, the Christ.
John 4:25, KJB
The woman saith unto him, I know that Messias cometh, which is called
Christ: when he is come, he will tell us all things.

これら2つの箇所においてギリシャ語のメシヤ:messiasは、ギリシャ語のキリスト
と同質であると明確に語られている。 神は明らかにそえらの相違を説明しているのである。
新約の用語は、メシヤでなくキリストなのである。
主はこれを平易にされたのか?単純な事実は、キングジェームス訳新約聖書において、
555回キリストが使われていることである。
何故なら、対応するギリシャ語の単語が、全てChristosであるからである。
そして、約400年もの間、全ての英語聖書は、この単語を正しく「キリスト」と訳してきたのである。それは、伝統とは何ら関係がない。そうではなく、
それは、「主がそういわれた」ことと関係あるのである。
彼らのwebページ「現代英語における明確さ」の、サブタイトル「広がる理解:イエスとメシヤ」
の中で、TNIV翻訳者は以下の理由を述べている;

「イエスに対してメシヤニックな称号を使う時、特にマタイ、ヨハネ、使徒行伝においては、
翻訳者は、メシヤという称号を使った。他の箇所で、
称号が、特別メシヤの色彩を帯びていない時は、翻訳者は、ギリシャ語のキリストを使用した。」
(TNIV: Clarity in Contemporary English, www.tniv.info/story/clarity.php)

メシヤという称号は、メシヤニックジュー用語であり、それは、
主にユダヤ人により認識される。
多くの人々、特に現代の聖書の知識のない世代にとっては、メシヤが、誰であり、それが
何を意味するのか何らの知識もない。
TNIV翻訳者は、TNIV訳の使命は;
「聖書原文の意味に明確に通じる、間違いなく正確な聖書翻訳を現在の世代に
与えること」と言っている。

しかし、これらは、「原文の意味に明確に通じて」はいない。
原文は、明らかに「Christos:キリスト」と
語っているからである。

現在の世代の圧倒的多数は、メシヤが誰であり何を意味するのかその最小の知識も
持っていない。
しかし、もしあるとするなら、大変少ないが、キリストとは、誰か知らない者もいるだろう。

翻訳者は、さらに
「Christosがイエスへのメシヤ的称号として使用されるとき
特にマタイ、ヨハネ、使徒行伝においては、
翻訳者は、メシヤという称号を使った。」
と語っている。
しかし、それは違う。

というのは、69回、「メシヤ」ということばが使われている中で、
私は、少なくとも18の箇所で、明確に正確なキリストという
ことばの代わりにユダヤ的なメシヤを誤って適用していると箇所を見つけた。
たとえば、TNIV訳は、有名なルカ2:11を不正確に訳している。

ルカ2:11,
TNIV訳「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主なるメシヤ
です。」

"Today in the town of David a Savior has been born to you; he is the
Messiah, the Lord." (Luke 2:11, TNIV)

KJV訳は正しく訳している。
ルカ2:11,KJV訳
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

"For unto you is born this day in the city of David a Saviour, which is
Christ the Lord." (Luke 2:11, KJB)

ルカ2:11は、主イエスキリストを救い主として、語っている。
救い主とは、ユダヤのメシヤについて語ったものではない。

神に感謝すべきは、救い主はただにユダヤ人のみでなく、全世界のための方である。
みことばがさし示すものこそ、もっとも明白である。

以下の節は、「世界の救い主」、「全ての人の救い主」を積極的に語っていることに
注目してください。

ヨハネ4:42「そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がキリストであり、ほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

John 4:42, KJB:
And said unto the woman, Now we believe, not because of thy saying: for
we have heard him ourselves, and know that this is indeed the Christ,
the Saviour of the world.

1テモテ4:10「私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」

1 Timothy 4:10, KJB:
For therefore we both labour and suffer reproach, because we trust in
the living God, who is the Saviour of all men, specially of those that
believe. (1 Timothy 4:10, KJB)

マルコ1:1においては、メシヤに関する別の誤った適用がある。
マルコ1:1のTNIV訳は、
「神の子イエス・メシヤの福音のはじめ。」

KJVは正しく訳している。

Mark 1:1 The beginning of the gospel of Jesus Christ, the Son of God;
(Mark 1:1, KJB)

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」

注目すべきことは、マルコ1:1の意味あいは、「福音の始め」であることである。
イエスキリストの福音は、
決してメシヤ的呼称ではない。彼らは、
. いかに、真理から外れてしまったことであろうか。

イエスキリストの福音は全世界のためのものである!
さらに注目すべきことは、TNIV訳は、「神の子」ということばを削除することにより、
主イエスキリストの神性を急速に消し去ろうとしていることです。

神に感謝すべきことには、TNIV訳は誤っており、
福音は全ての造られたもののためであり、単にユダヤ人だけのものではないのです。
.
Mark 16:15, KJB
And he said unto them, Go ye into all the world, and preach the gospel
to EVERY creature. [not the Jewish, Messianic, etc.]

「マルコ16:15それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

エペソ3:6は、特に「キリストの福音」は、ユダヤ人メシヤではなく、
異邦人のためのものであることを述べている。

Ephesians 3:6, KJB
That the Gentiles should be fellowheirs, and of the same body, and
partakers of his promise in Christ by the gospel:

エペソ3:6「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」

福音が、ユダヤ的メシヤ王国の用語であるのか、決してそうではありません、
神はその様なことを禁じています。
イエスキリストの福音は、
「望むもの全て」に向けられたものであり、
ヨハネ3:16は、福音の神髄を
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と語っている。

私はききたい、聖書の主要な教理にこの様な無礼な否定をするとは、
TNIV訳のスタッフは、
本当に聖書を読んだことがあるのか?

私は冗談でなく、真面目にきいているのである。

彼等はただ座って、ギリシャ語やヘブル語をひねくり回しているのにすぎないのではないか、そしてただ、単純にKJV訳聖書を取り、それを読むことは決してしなかったのではないのか。
彼等にとっては主イエスのマタイ24:15のみことばに耳を傾ける
ことが非常に必要である。

マタイ24:15「読者よさとれ。」

また、恐らく、マタイ16:16(マルコ8:29、ルカ9:20も)は、
もっともでたらめな「メシヤ」
の誤訳を含むといえるだろう。

KJB  Matthew 16:13-18:
13 When Jesus came into the coasts of Caesarea Philippi, he asked his
disciples, saying, Whom do men [notice the inclusive plural MEN ・not
Jews] say that I the Son of man am?
14 And they said, Some say that thou art John the Baptist: some, Elias;
and others, Jeremias, or one of the prophets.
15 He saith unto them, But whom say ye that I am?
16 And Simon Peter answered and said, Thou art the Christ, the Son of
the living God.
17 And Jesus answered and said unto him, Blessed art thou, Simon
Barjona: for flesh and blood hath not revealed it unto thee, but my
Father which is in heaven.
18 And I say also unto thee, That thou art Peter, and upon this rock I
will build my church; and the gates of hell shall not prevail against
it.

マタイ16:13-18(新改訳)
13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

TNIV 訳のマタイ 16:16 は、

13 When Jesus came to the region of Caesarea Philippi, he asked his
disciples, "Who do people say the Son of Man is?"
14 They replied, "Some say John the Baptist; others say Elijah; and
still others, Jeremiah or one of the prophets."
15 "But what about you?" he asked. "Who do you say I am?"
16 Simon Peter answered, "You are the Messiah, the Son of the living
God."

(シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子メシヤです。」)
17 Jesus replied, "Blessed are you, Simon son of Jonah, for this was not
revealed to you by flesh and blood, but by my Father in heaven.
18 And I tell you that you are Peter, and on this rock I will build my
church, and the gates of death will not overcome it.

マタイ16:13-18のテキストと内容は非常に明確である。
18節を見てみましょう。参照されているのは、ユダヤ人のメシヤ王国ではなく、
「教会」である。全く彼らは間違えているのである。

この様に重大なミスがあるというのに、
一体全体誰が、だらしなく、いいかげんなTNIVの翻訳を真面目に考えるだろうか?

さらに、18節の目立つ誤訳にも注意ください。「地獄の門:the gates of hell」が今や、
「死の門:the gates of death」になっている、これは、自由主義的なRSV, NCV 訳と同調した翻訳である。しかし、教会は「死の門」と戦っているのではなく、「地獄の門」と戦っているのである。
馬鹿げたことである。

思いおこしてください。これらのいいかげんな方法が、NIV訳聖書及び、アメリカで禁止されたNIVI(NIV Inclusive version)訳聖書を翻訳したのと同じグループ、同じ手法によるものだということを。
以下は、TNIV訳のwebサイトからの直接の引用;

「評判の高いNIV訳を翻訳した完全に独立したグループは、
TNIV訳の仕事を請け負ったのと同じ、有名なグループである。
NIV訳の学問性を高めた広く尊敬される翻訳方法は、TNIV訳の発展のためにも用いられた。」

(Faithfully Produced by CBT, www.tniv.info/story/cbt.php)

TNIV翻訳者自身によれば、
「TNIV訳は、NIV訳よりさらに正確」なのである。

「NIV訳は、非常に正確な聖書テキストであり、1984年迄にCBTが造りだせる最良のものだった。TNIV訳は、それより、更に少し正確な聖書訳であり、
それは、2001年までにCBTが製作したものの中でベストである。」
(TNIV FAQS, www.tniv.info/QandA.php)

驚愕の結論:
誤った、計画的な「キリスト」の削除は、1
ヨハネ2:22で前もって語られている
反キリストのしるし、指紋である。

1ヨハネ2:22 kJV訳「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

1 John 2:22, KJB:
Who is a liar but he that denieth that Jesus is the CHRIST? He is
antichrist, that denieth the Father and the Son.

TNIV訳の翻訳者は、この警告に対してどのように答えたのか?
簡単である、彼らはそのみことばを変えたのである!
その通り、彼らはその節を変え、彼らの証拠の指紋を消しさり、訴える証拠を
隠したのである。
私は思うには、反キリストとは、
ユダヤ人のメシヤ王国に関することではないのか。

1
ヨハネ2:22 TNIV訳
「偽り者とは誰か。
イエスがメシヤであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

1 John 2:22, TNIV:
Who is the liar? It is whoever denies that Jesus is the Messiah. Such a
person is the antichrist ・denying the Father and the Son.

女性の反キリスト?

さらに注意して下さい。
1ヨハネ2:22において、TNIV-NIV訳グループは反キリストに関連して、
「彼:he」という男性代名詞を、中性的な「人:person」に変えています。
ギリシャ語のテキストは、特にそして男性一人称である、outosすなわち、
heが使われています。
女性の反キリスト?、ヒラリークリントンや、Virginia Mollenkott
が大喜びしそうなことばです。

TNIV訳は以下の箇所で、69回も、キリストとうことばをメシヤと変えています。

Matthew: (16 回)
1:1, 1:16, 1:17, 2:4, 11:2, 16:16, 16:20, 22:42, 23:10, 24:5, 24:23,
24:24, 26:63, 26:68, 27:17, 27:22
Mark: (8 回)
1:1, 8:29, 9:41, 12:35, 13:21, 13:22, 14:61, 15:32
Luke (12 回)
2:11, 2:26, 3:15, 4:41, 9:20, 20:41, 22:67, 23:2, 23:35, 23:39, 24:26,
24:46
John (16 回)
1:20, 1:24, 3:28, 4:29, 7:26, 7:27, 7:31, 7:41(2), 7:42, 9:22, 10:24,
11:27, 12:34, 20:31, 21:31
Acts (12 回)
2:36, 3:18, 3:20, 5:42, 8:5, 9:22, 17:2, 17:3(2), 18:5, 18:28, 19:23
Romans (1 times)
9:5
1 John (2 回)
2:22, 5:1
Revelation (2 回)
11:15, 12:10,

コメント 全くそのとおり で あきれて 物もいえません 



新改訳の翻訳の問題点

新改訳の翻訳の問題点

あなたは血により洗われますか?

テリーワトキンスの真理にダイアルミニストリー

あなたは清める力のためにイエスにいましたか?
あなたは、小羊の血で清められましたか?
あなたはこの時、彼の恵みに十分に信頼していますか?
あなたは小羊の血の中で清められましたか?

(これらに関して)新しい聖書の曲解訳の版ではそうでないことになっています!

New International Version (NIV)ではそうでないことになっているのです、
そして New American
Standard Version (NASV), New Living Bible, New Revised Standard Versions
(NRSV), Revised Standard Version (RSV), The Living Bible (TLB), Today's
English Version, Contemporary English Version (CEV), International
Standard Version: (ISV) 及びその他の曲解訳においてそうでないことになっています!

黙示録1:5節をKJV訳で読むと;
「 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から清め」

(日本語訳は訳者の私訳:以下みな同じ。正しくは英語訳を参照ください)

しかしながら、新しい曲解訳によるなら、私達は「血によって清められる」のではない。
(訳者参考:新改訳も「罪から解き放ち」と訳されている)



American Standard Version (ASV) によれば、この箇所は以下のとおり;

and from Jesus Christ, [who is] the faithful witness, the firstborn of
the dead, and the ruler of the kings of the earth. Unto him that loveth
us, and loosed us from our sins by his blood;
「彼の血により、私達を罪から解き放った」


Amplified Bible 訳によれば、同じ箇所は;

and from Jesus Christ the faithful and trustworthy Witness, the
First-born of the dead [first to be brought back to life] and the Prince
(Ruler) of the kings of the earth. To Him Who ever loves us, and has
once [for all] loosed and freed us from our sins by His own blood.
「彼の血により私達を解き放ち、自由にした」

Contemporary English Version (CEV) 訳によれば;

May kindness and peace be yours from Jesus Christ, the faithful witness.
Jesus was the first to conquer death, and he is the ruler of all earthly
kings. Christ loves us, and by his blood he set us free from our sins.
「彼の血により、私達を罪から自由にした」



Good News for Modern Man 訳によれば;

and from Jesus Christ, the faithful witness, the firstborn Son who was
raised from death, who is also the ruler of the kings of the earth. He
loves us, and by his death he has freed us from our sins
「彼の死により、私達を罪から自由にした」


International Standard Version (ISV) 訳によれば;

and from Jesus Christ, the witness, the faithful one, the firstborn from
the dead, and the ruler over the kings of the earth. To the one who
loves us and has freed us from our sins by his blood;
「彼の血により私達を罪から自由にした」

Living Bible (TLB) 訳によれば;

and from Jesus Christ who faithfully reveals all truth to us. He was the
first to rise from death, to die no more. He is far greater than any
king in all the earth. All praise to him who always loves us and who set
us free from our sins by pouring out his lifeblood for us.
「彼の命の血を私達に注ぐことにより、私達を罪から自由にした」

New American Standard Version (NASV) 訳によれば;

and from Jesus Christ, the faithful witness, the firstborn of the dead,
and the ruler of the kings of the earth. To Him who loves us and
released us from our sins by His blood
「彼の血により私達を罪から自由にした」



New Century Version (NCV) 訳によれば、
and from Jesus Christ, Jesus is the faithful witness, the first among
those raised from the dead. He is the ruler of the kings of the earth.
He is the One who loves us, who made us free from our sins with the
blood of his death.
「彼の死の血により、私達を罪から自由にした」


New International Version (NIV) によれば;

and from Jesus Christ, who is the faithful witness, the firstborn from
the dead, and the ruler of the kings of the earth. To him who loves us
and has freed us from our sins by his blood,
「彼の血により、私達を罪から自由にした」

New Living Bible 訳によれば;
and from Jesus Christ, who is the faithful witness to these things, the
first to rise from the dead, and the commander of all the rulers of the
world. All praise to him who loves us and has freed us from our sins by
shedding his blood for us.
「彼の血を私達に注ぐことにより、私達を罪から自由にした」

New Revised Standard Version (NRSV) 訳によれば;
and from Jesus Christ, the faithful witness, the firstborn of the dead,
and the ruler of the kings of the earth. To him who loves us and freed
us from our sins by his blood
「彼の血により私達を罪から自由にした」

New Testament in Modern English (J.B. Phillips) によれば;
and from Jesus Christ the faithful witness, firstborn of the dead, and
ruler of kings upon earth. To him who loves us and has set us free from
our sins through his own blood
「彼自身の血により私達を罪から自由にした」

Revised Standard Version (RSV) によれば;

and from Jesus Christ the faithful witness, the first-born of the dead,
and the ruler of kings on earth. To him who loves us and has freed us
from our sins by his blood
「彼の血により私達を罪から自由にした」

Today's English Version によれば;
and from Jesus Christ, the faithful witness, the first to be raised from
death and who is also the ruler of the kings of the world. He loves us,
and by his sacrificial death he has freed us from our sins
「彼の犠牲的な死により、私達を罪から自由にした」

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ショッキングな事実は、新しい曲解訳のどれも決して「あなたは血によって清められる」とは訳していないということです!

苦い水:ペンテコステ運動の歴史:

<癒されないいやし、道徳的腐敗、不倫、偽り等々、ペンテコステ運動の驚くべき歴史>

「ヨハネの黙示録 8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」

以下は、20世紀初頭からのペンテコステ運動の歴史を記したものです。

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「後の雨運動」は、その教義が異端的、誇張、そして虚偽に性格ずけられている。
このようなことばが、人には受け入れがたいものであることは、私にはわかっているが、しかし、この運動に関して書かれた文書は否定できない。
紀元一世紀に起きたヨハネ、パウロら、使徒達により起された奇跡は今日のクリスチャンにより行われているものとは、異なる。

使徒行伝時代のしるしが現在、回復されると主張され、それが使徒のしるしだといわれているが、しかしこれを受ける者は実際には、オカルト的な現象、たとえば「聖霊により倒される事」、霊で酔うこと及び魔術的(彼等は、知識のことばと称する)なことがらを受け入れなければならなくなる、さもなければ、彼等はしるしを過大視し、前もってつくりあげるようにさせられる。

これは、まさに最近の「後の雨運動」、笑いのリバイバルの中で見てきたことである。20世紀の後の雨運動は、文字どおり、霊的混乱、誤り、偽りにより動かされている。
ある人々は、我々がこの運動全体を描くといいながら、例外的なことを全体といいかえていると抗議するかもしれない。

しかし、覚えていただきたいことは、以下に書かれた人々は、ペンテコステ運動の中で、(皆に)認められている指導者であるということである。彼等は例外的な人々ではない。
彼等は権威ある「ペンテコステカリスマ運動の辞典」及び多くの他のペンテコステの歴史に掲載されている人々である。

さらに、イエスキリストは我々に「教師をその実によって判断する」ようマタイ7:15-18で語っている。聖霊から来た働きであると称していても、しかし実際は、偽りの教え、道徳的におかしい、きちがいざためいたものは拒否されるべきである。私はペンテコステ運動の中に多くの敬虔なクリスチャンがいることを認めるものである。私自身このような人から、キリストへ導かれている。

シャーロッテのジョセフチャンバー博士のように笑いのリバイバルの狂気に対して、強い反対の態度をとる敬虔な人々もいる。
私はチャンバー博士のペンテコステ神学に関しては受け入れがたいが、しかし、彼に対して大きな
尊敬を抱いている。彼の教会は、彼等自身が属する教団の非聖書的でないことがらに反対したため、300万ドルの資産を消失した。神の教会とその教団は、裁判により、彼等の資産を奪ったのである。
私は真理のため彼等が払ったたそのような態度を尊敬するが、私は後の雨ペンテコステ教義と継続するしるしに関する誤った教理が以下の調査で述べるような狂気に陥る根本であると信じる。

全てのペンテコステが2枚舌、及び極端に走っているわけではない、しかし、非聖書的なペンテコステ教義がそのようなものに加担している。
私はこれを心から信じている、私は、昔からのペンテコステ主義の多くの面に対して心情的にひかれるものを持ってはいるものではあるが。私は彼等の神に対しての熱心に関して主をほめる。すなわち、真の新約のキリスト教を見たいとの願い、明確な礼拝、彼等の神への信仰、全ての神のことばを真剣に受け止めたいとの彼等の願い、彼等の奇跡-神の働かれる力-に対する確信、この世からの分離に対する熱心に対して。しかし、私は、たとえ昔流のペンテコステ派であっても、働きをともにはできない、何故なら、彼らは非聖書的であるばかりか、愚かにも終末の背教となる、世界統一教会(エキュメニズム)に至る教義の基礎を築いているからである。

以下にペンテコステの歴史を記していく。

*ジョンアレクサンダードウイ

初期のペンテコステの歴史において、もっとも影響のあるセンターの一つは、ジョンアレクサンダードウイ(1847-1907)により建てられた「シオンの町」である。
ドウイ自身は、異言と聖霊のバプテスマとの教理を受け入れていないが、彼は、「アメリカのいやしリバイバルの父」と呼ばれている。(ハレル著「全ては可能」13ページ)

彼の後の日の奇跡教理は、ペンテコステ主義の道を開き、ペンテコステ教理は、彼が死ぬ以前に彼の組織を速やかに設立した。多くの影響力のあるペンテコステ指導者が、彼の運動から輩出された。
彼の雑誌、「いやしの葉」は、世界中に流布し、広大な影響を与えた。ドウイは、いやしはあがないの中で約束されていると主張し、信仰によるいやしを求める人々は、全ての医療的手段を排除すべきであると教えた。

彼は薬剤師や外科医は、悪魔の手先であるとみなした。彼の娘が偶発的な事故で、アルコールランプによりひどく火傷した時、彼の側近の一人が彼女の痛みをやわらげようとして、ワセリンを塗ろうとした時、それを止めた。彼は彼女に何らの医療を施すことをも拒否し、彼女はそのまま死亡した。他にも多くの彼の信仰治癒ホームに来た人々が、何らの医療も受けず、その病の中で死んでいる。1895年、彼は殺人と放置の罪によりシカゴ市により起訴され、有罪となった。しかし、高等裁判所は、罪状は、構成されないと規定した。彼は彼に従う者は、全ての豚製品の使用を諦めるよう要求した。

彼はシオンの町を鉄の腕をもって支配したが、彼は財政に関する無責任さ及び、個人的ぜいたくで、記憶されている。1901年、彼は、自分はエリヤ、回復者であると主張し、1904年、彼は彼の追随者達に
使徒的キリスト教の全面回復を予期していると語り、彼が回復された終末の教会の最初の使徒であると神から命令されていることを明らかにした。(ペンテコステカリスマ運動の辞書249ページ)彼の人生の晩年の数年間、彼は、性的な間違いから告訴され、彼はびっこの歩行をするようになり、シオンの町は、破産を宣告された。彼の死の6ヶ月前、彼は完全な失望のうちに横たわっていた。

ドウイの異端的な教理、非聖書的なミニストリーにも関わらず、彼はチャールスパーム、及び彼の
同じように非聖書的なペンテコステ主義に対して、道を備えることになった。
ペンテコステカリスマ運動の辞書は、もっとも有名なペンテコステ伝道者がシオンの町から輩出したことを記している。(368ページ)そしてシオンにおける多くのパームの追随者は、1914年のアッセンブリーズオブゴッドの形成に参加した。

実際に、当初の8人のAOG(
アッセンブリーズオブゴッド)委員のうち、3人は、シオンの町からのメンバーであった。(370ページ)
シオンの町から起き、ペンテコステ運動に影響を与えた人物は、F.F.ボスワース、ジョンレーク、J.ローズウエル フラワー、ダニエルオッパーマン、サイラス フォックラー、フレッド ボグラー、マリー バウゲスブラウン、ウィリアム パイパー、F.A.グレーブス、ラミュエルホール、マーサ ロビンソン、ゴードン リンゼイ、レイモンド リッキーである。「いやしの声」の編集者であり、影響力あるAOG働き人のゴードン リンゼイは、ドウイの自伝を書き、彼の影響を「力ある働きをなした信仰の人々の将軍」であると、ペンテコステ説教者の世代を参照しつつ誉めた。

*マリア・ベウラ・ウッドワースーエサー(MARIA BEULAH WOODWORTH-ETTER)

信仰治癒の伝道者マリア・ベウラ・ウッドワースーエサー (1844-1924) は初期のペンテコステ運動において、広大な影響を与えた。ペンテコステカリスマ運動の辞書によれば、彼女は、「ペンテコステ的メッセージを伝える為の記念碑的存在である」そして、「大部分の初期のペンテコステ派は、ウッドワースエサーを神がこの運動に送った者とみなし、彼女を批判なしで受け入れた」と記してある。

彼女がテキサスにおいてF.F.ボスワースのために5ヶ月にわたる神癒クルセードを行った時に、「ダラスに集まった人々はそのまま、影響力のあるペンテコステ働き人のリストそのものであり、初期ペンテコステの働き人の顔見せのようであった」(同上365ページ)彼女の集会は、霊により倒されること、預言、トランス状態になること、一般的な大混乱により特色ずけられていた。

彼女は度々、集会中にトランス状態になり、礼拝が続いている間、1時間以上も両手を挙げたまま、彫像のように立ちつくしていた。(ペンテコステの辞書901ページ)彼女はこのように、「夢見ごごち(トランス)の伝道者」そして「ブードーの女預言者」と称された。彼女は、サンフランシスコ湾地域が地震と津波により1890年に破壊されると誤った預言をした。彼女はモルモン教からの招きを受け入れ、ネブラスカにおいて1920年に説教した。

*チャールス・パーム(CHARLES PARHAM)

我々はこのレポートの始めにペンテコステ運動は、その遺産をカンサス州 トペカにあるチャールス・パームのベテル聖書学校に負っている事を述べた。ここにおいて、アグネス・オズマンが1901年に按手された時、異言をかたり始めたのである。

話では(確かに確証されたわけではないが)その時、オズマンは英語を話せなくなり、中国語で3日間話した、そして二日目に、ボヘミア語で話し始めた。間もなく、学校の他のほとんどの学生は、「異言で」話し、賛美した。パームの主張では、言語専門家や他の言語学の教育を受けた人々により異言は言語であると確認されたとのことである。

しかし、これはこの運動の外部の人々により確認されたわけではない。 その日の新聞の記者は、この現象をただ「わけのわからないおしゃべり」であると記述した。1914年チャールス・シュムウエイは初期ペンテコステの異言は本物の言語であったことを証明する証拠を熱心に探した。彼は、失敗し、たった一人の確証する人物をもさがし出す事ができなかった。(ジェームス ゴッフJr.「収穫に白い野」、フエイテヴィル:アーカンサス大学プレス、1988年 76ページ)

彼の1919年のPh.D.の講話で、シュムウエイは、不審を抱かせるレポートを書いたとして、地方ハウストン編年史を非難して述べている。「その当時(パームがそこで、聖書学校を開いていた時)ハウストン内もしくはその近辺で政府の通訳をしていた何人かの人々からの手紙が手許にある。そして彼等はいわれているような事実を全て否定しているわけではない。」(Goff, 98ページ)

パームの聖書学校学生は、彼らが舌による異言のたまものの産物であると主張する奇妙な記述をざっと書きとめた。
彼らはこれらの記述が、たとえば中国語のような外国語であると主張した、しかし、これらが(外国語の)知識のある人々によって確認をされた時、それが単なる判読不能な記述であるとわかった(Goff
76ページ)。

新聞社は、これらの記述を「風変わりで面白くて見分けのつかない象形文字」と言った(同上
80ページ)。
パームは、彼は宣教師は地の果て迄行くが、(異言があるのでその地の)言語を学ぶ必要がないと熱心に信じた。
実際、大部分の初期ペンテコステ派は、そう信じていたのである。
しかし、事実は、そうはいかなかった。

A.G. Garrがインドへ旅立って、その地で超自然の異言を通して人々に話しかけようとしたとき、彼は自分がコミュニケート不能であることを即座に理解した。

我々がこのレポートの初めに見たようにパーム(ペンテコステの創設者)は教理上の異端で満ちている。
彼は、救われていないものは消滅すると信じており、永遠の裁きの聖書教義を否定した。
彼は、アングロイスラエル主義の非聖書的な教義を信じた。
彼は、2つの異なる創造があり、そして、アダムとイブがエデンの園の外に生きた人々とは異なる民族だったと教えた。
最初の民族には魂がなかった。そして、これらの魂がない人々は、洪水において滅ぼされたと、彼は主張した。パームは、後の日の霊のバプテスマを受け、異言を話す人々がキリストの花嫁を構成し、キリストの再臨において権威ある特別な地位を持つと信じている。

彼は、異言を話す者達から成る「部分的な携挙」を信じた。
パームは、身体の癒やしがキリスト教徒の生まれつきの権利であると信じた。
キリスト教の歴史雑誌(58号、第XVII巻、2番、1998年)の最近の号は、ミズーリ州カーテージ、の裁判所の階段に立っているパームと彼の従者のうちの7人を含む写真を掲載している。1906年のものである。

パームは、「使徒の統一」と書かれた旗を持っている。
他の人は、「真実、信仰、生命、勝利、健康」と書かれた旗を持っている。
彼らは、健康が使徒的クリスチャン人生の保証された一部であるという彼らの教理上の見解の声明をしていた。
彼は常に癒やすのが神の意志であり、そして、薬と医者が遠ざけられなければならないことを教えていたにもかかわらず、パームの息子のうちの1人は、癒やされず病気の中で16歳に死んだ。
彼の他の息子は、37歳で死んだ。
"

パームの集会に出席した人々のほとんどは、癒やされなかった。
1904年10月に、ネティ・スミスという名の9才の少女が、死んだ。
彼女の父は、パームの熱心な従者であって、彼の娘のために医療を拒否した。
この小さい少女の病気が処置でき得るものであり、そのためその地域の人々は、彼女の死が不必要なものであるとみなしたので、ネティの死により地域の世論はパームに対して敵意を抱くようになった。

パームは、彼の人生を通し、いろいろな病気で苦しみ、時には説教や、旅行をするにも病気で困難な程だった。例えば
彼は1904-05年の冬中、病気で寝たきりの時を過ごした。彼自身は、癒やされることは贖罪で保証されるとの説教をしていたにもかかわらず(ジェームズGoff Jr.、「収穫に白い野」94ページ)。

パームは、ハンカチの上に祈り、それを彼のミニストリーを要求する人々に郵送するということをした最初のペンテコステ説教師であった(Goff 104ページ)。
1908年に、パームは契約の失われた箱を捜すために考古学的な探検目的で、聖地へ旅立つための資金を調達した。

彼は、彼がその場所に関する情報を持っている、そして、箱を見つけることが終わりの日の聖書の計画に合致すると新聞社に主張した。
12月までに、彼は十分な資金を持っていると発表した、そして、申し立てによると彼はエルサレムへの彼の旅行を開始するためにニューヨークへ旅立った。

彼は決して中東へのチケットを購入せず、1月に直接、帰宅した。そして、彼はニューヨークに到着した後に(強盗に)襲われたのだと主張した。
パームは、シカゴの北に位置するシオンの都のアレキサンダー・ドウイ(ペンテコステカリスマ辞典が現代の癒やし伝道者の父と呼ぶ男)の影響を受け、または引き継ぎさえしようとした。

ドウイーは、彼自身を終わりの時の教会の回復者エリヤであり、最初の使徒であると宣言した。
我々は、多くの場合、ペンテコステの歴史においてパームがペンテコステの創立の主な先駆者のうちの1人と発表されることを読者に思い出させたい。

*フランク サンフオード

チャールズ・パームの良き指導者のうちの1人はフランク・サンフオードであった。そして、彼はランカスター、メインで「神聖な聖霊と我々、聖書学校」を運営した。
サンフオードは後の雨型神学を進歩させて、「使徒の生命とパワーに戻ろうと努力していた」。サンフオードは2台の船を購入して、アフリカへの宣教旅行をしようとした。
1台の船はアフリカの海岸を離れて破船した、そして、皆他の船へ移った。
サンフオードは責任者だった、しかし、彼が神の指示だと主張する、愚かな決定のために、彼の船員のうちの9人は食物と水が無いために帰りの旅において死んだ。
これは、1911年のことであった。

悪く運命づけられた宣教旅行は、4ヵ月、続いた。
サンフォードは、その後、殺人の嫌疑をうけて、連邦の刑務所において10年の刑を宣告された。

アズサストリートの働き

ロサンゼルスで有名なアズサストリートの働きを設立した男は、黒人の伝道者ウィリアム セイマーであった。
ペンテコステ歴史家ビンソンシナンは言う。「アズサストリートリバイバルは、一般に現代のペンテコステの動きの始まりであると考えられる。
アズサストリートから直接受けたペンテコステ的な働きのみでなく、間接的に影響される何千もの他の人々がいる」(Synanホーリネス、ペンテコステの伝統105,130ページ)。

1901と1902年の間にセイモウール(Seymour)は、マーティン・ナップの「神の聖書学校」に出席して、シンシナティで「夕べの光聖徒」に加わった。
彼は「完全な聖化」という間違った神学教義を採用した。そして、第2の「恵みのみわざ」が救われた後、清められるため、要求されると信じた。
人はキリストに対する信仰を通して再び生まれなければならない、しかしまた、人は恵みの第二のわざを通してその後聖化されなければならない。

セイモウールは、真の教会が終わりの時の奇跡的リバイバルにおいて回復すると信じた。
1903年に、彼はテキサス、ヒューストンにおいてチャールズパームの聖書学校に通った。
そこで、彼はキリスト教徒がその後、異言の証拠を伴う聖なる御霊によりバプテスマされなければならないという間違ったもう一つの教義に傾倒した。セイモウールは1906年の初めに小さいホーリネスグループ牧師としてロサンゼルスに招かれた。そこは、
招待された時点には、女性であるジュリーハッチンスによって牧会されていた。第二のバプティスト教会の
「第二の祝福」、罪なき完全という異端により訓練された人々からグループはつくられていた。
ロサンゼルスへ行く途中にセイモウールはコロラド州デンバーでアルマホワイトの「火の柱運動」を訪問した。

このグループは、罪なき聖化を教えて、その証拠が踊ることだと信じた。
ホワイトアルマは、セイモウールに感動しなかった。
彼女は、次のように後で彼について書いた:
「私は今迄いろいろな宗教のおかしな人々や盲信者に会って来たけど、彼はその誰にもぬきんじていると思う」
セイモウールはロサンゼルスへ到着後に、彼を招待してくれた教会から、追い出される前に1つの説教しかできなかった。
彼の説教において、彼は異言が聖霊を受けることの証拠であると断言した。

彼は、彼自身は異言でこれまで話したことがないという事実にもかかわらず、こう言ったのだ!
ロマ8:9は、はっきりと、「人がもしキリストの御霊を持たないならば、彼はキリストのものではない」と言う。

これは、非常に奇妙な問題である。
彼自身の証言によれば、ペンテコステ運動の重要な創設者である彼は、自分がキリストを知る以前に御言の最も深い真理を説教していたという。そして、聖書には生まれつきの人は神のものを知ることができないと書かれているのだ(1コリント1:14)。

セイモウールは彼の集会を家へ移した、その後、アズサストリートの建物に移った後、奇妙な現象が起こり始めた。

集会は3年以上続き、多くの人々がをアズサストリート訪問した。そして、彼等は自分の家にそれを持ち帰り、自分自身のペンテコステを捜すために彼らの神学と経験を持った。
集会は、朝に始まって、少なくとも12時間以上続いた。
礼拝の順序はなく、通常、リードする人は誰もいなかった。
人々は同時に、歌ったがそれは、完全に異なる音節、リズムとメロディーであった。」(テッドオルセン、「アメリカのペンテコステ」、キリスト教の歴史、58号、1998年)

礼拝は、多くの混乱によって特徴づけられていた:
持ち上がる事、異言、霊で倒されること、踊ること、跳び上がること、ひっくりかえること、トランス状態になる、ヒステリー、奇妙な雑音、聖なる笑い。
ある訪問客は、集会を「野蛮なヒステリーのデモンストレーション」と評した。
求める者は、ある「奇妙なスペルに捕らえられ、意味不明な音をたて始める」。
タイムスの記者は、参加者が「彼らの変な熱意を通して、気が狂った興奮の状態に入り込もうとしている」点に注意した。
ほとんど又は全く秩序というものが、アズサストリートの礼拝にはなかった。
「聖霊によって動かされた」と感じた人は誰でも話そうとし、そうする。
セイモウールは、めったに説教をしなかった。

その代わりに、彼は多くの時間、説教壇の後の空の木枠で彼の頭を覆っていた。
彼は、人々に神への聖化の要求、聖霊によるバプテスマと、神により癒されるよう、叫ぶことを教えた(Synan  99ページ)

私がアズサストリート「リバイバル」について読む当時の記述は、現在の「笑いのリバイバル」に非常に似ているように見える。
パラムが1906年10月に集会を訪問したとき、彼さえ礼拝の混乱にショックを受けた。
彼は、「聖なる回転と催眠」による「ひどい適合と痙攣」により動揺した。
彼は、アズサの「異言」を「おしゃべりであり、音をたて、全く言語ではないことばを早口にしゃべる」といった。アズサストリート集会は、パラムが「センセーショナルな聖なる回転者」と彼らを非難したほど、理性のないものだった。
彼は、アザサストリート集会が、主に肉、霊的な制御と催眠術の実行によって特徴づけられると証言した。(サラ・パラム著、「チャールズF.パラムの人生」、ジョプリン、MO:
トライプレート印刷社、1930年刊、163ページ)

パルムによれば、彼の時代にペンテコステを明言している人々の3分の2は、「催眠術をかけられているか、あるいは、変な霊に動かされている」(パルム著、「チャールズ・パラムの人生」
164ページ)

アズサストリートについての彼の記述において、パラムは道徳
心のない様子で、お互いの上に倒れかかっているいる男性と女性を記述した。
私は、笑いのリバイバル・礼拝の録画ビデオにおいて、これと同じものを見た。

パラムが1906年にアズサストリートに到着したとき、彼の最初の説教を、アズサで起こっていることがらのため「神は、胃の具合が悪い」、と人々に話すことから始めた(チャールズ・シャムウエイ、「異言のたまものの研究」、A.B.シエシス、カリフォルニア大学、1914年、178,179 ページ;
Goff著「白い野を収穫に」131ページに引用されている。)
彼は、彼の意見を決して変えなかった。

パラムは彼の人生の終わりに至る迄、たびたび「ペンテコステ主義の父」と呼ばれ、アズサストリートを「霊的な力の売春」のケースとして非難した。
このように、「ペンテコステ主義の父」はインチキ、操作されている、悪霊的として婉曲にアズサストリート集会を拒絶した、そして、実際的には、全てのペンテコステ的教派がこの(アズサ)集会から直接彼らの遺産を得たとしても、彼は確かに拒絶したのだ!
広範囲のレポートをなすことによってアズサストリート集会を大衆化するのを手伝った人物は、フランク・バルテルマン(1871-1935)であった。
1925年に、彼は本を出版し、「ペンテコステ」がどのようにロサンゼルスに来たか、それがどう始まったか、そこにアズサ集会を記述した。
それは、1955年に、そして、再び1980年に再版された。
1897年に、彼が贖罪における癒やしと完全な聖化との偽りの教義を認めて、ホーリネス運動に加わったとき、バルテルマンは公認のバプティスト説教師であった。
続けてその時から、彼はグループからグループへと、救世軍、それからムーデイ聖書会、それからウエスレアン・メソジスト、それから女性説教師アルマ・ホワイトによって導かれる火の柱団体、それからバプティストに戻る、それからセイモールによって導かれるアズサストリート・ペンテコステ的集会にまでさまよった。

最後に、彼は三位一体の従来の聖書の教義を否定した「イエスのみ」運動に、洗礼を施された。
彼は、今日笑いのリバイバル提案者の間で共通である経験と同じ種類のものを経験した。
バルテルマンは、彼が説教をしていた会衆の前で半時間の間、霊で倒されたのであった。
別の時に、彼は意識不明になる迄、「電気ショック」を感じると言った。(フランク・バルテルマン、「アズサストリート」、ヴィンセント・サイナンによる紹介、xiiiページ)
神が身体の癒しを約束した彼の教義にもかかわらず、バルテルマンはたびたび病気だった、時には元気がなくなり、自殺を考慮する程だった。そして、彼の長女エステルは癒やしに対する彼の信仰にもかかわらず幼年時代に死んだ。
バルテルマンも、現在の笑いのリバイバルでも人気があるエキュメニズムと同じ霊を促進した。
アズサストリートに関する彼の本の最終的な章のタイトルは「統一への嘆願」であった。彼はいう:
「教会の中のあらゆる肉的な分派または人々は、世界に対して、キリストの体の一致と福音の誠実さに関して反対する。
群集は、キリストよりむしろ教義におじぎをし、香を燃やしている。
...霊は、信仰者の統一のために、1つの体のために、今日、働いている、『彼ら全てが一つであり、世界が信じる』とのイエスの祈りが答えられるように」(バルテルマン、「アズサストリート」172,73ページ).

注意しよう ― バルテルマンがどのように学理上の純粋さを捨て去り、経験上の統一を高揚したかに。
(聖書のことばを無視してエキュメニカルを感情的に煽っている事:訳者注)これは、笑いのリバイバルのテーマ歌のうちの1曲である。

人は、キリストについて真の教義を維持することなく真のキリストに礼拝することができない。
聖書は、警告する ― 偽りのキリストがあリ、偽りの福音、そして、偽りの霊があると。
広範囲にわたる霊的な背教と誤りのま中において我々が守られる唯一の方法は、健全な教義に固くつくことにより、偽りの教義を、判断し避けることである(ローマ16:17)。

聖書は、全ての信仰告白するキリスト教徒がリバイバルにおいてこの時代の終わりに共に連合するとは予言していない。
聖書は、むしろ、世界的な背教を預言する(マタイ24:4,5,11,25)

ウィリアム・ブランハム
多くの他の有名なペンテコステ的癒し働き人は、あざむきと異端に捕えられた。
ウィリアム・ブランハムはペンテコステ的癒し働き人中で最も偉大とみなされる、しかし、我々は、アルフレッド・ポールから、ブランハムクルセードが誇張と欺きによって特徴ずけられるとの目撃者証言を持つ。
ブランハムも、種々の異端を促進した。

彼は、三位一体を、それが悪魔からものであると否定して、カインがイブとヘビの間の性的結合の産物であると教えて、獣の印が分派主義であると信じ、地獄の永遠性を否定して、彼自身を黙示録3:14と10:7の天使であると宣言し、終わりの日の使徒の不死、「神の顕現された子」の教義を促進した。
彼は、 携挙と世の終わりが1977年までに起こると偽予言をした 。

ブランハムは、天使が彼にどのように彼の左手の振動によって病気を見つけるかを教えるのかを主張した。
「悩ます霊はたまものと接触するとき、肉体的な動きを始め、それが兄弟ブランハムの腕上に見えるようにさえなり、それは直ちに彼の腕時計を止めるほど、大振動になる。
この感触は兄弟ブランハムにとって、まるで大電流の活電線をつかむ感じに似ている」(F.F.ホスワース、「癒やすたまものプラス」、癒やしの声、1950年3月、ページ10-11)
ブランハムは占いのたまものを用いた。そして、彼が会った人々の人生の個人的詳細なことがらをうまくいいあてた。

彼は、彼の集会で彼がこれまで会ったことのない人々の名前を挙げて、過去のできごとと人々の秘密の罪を述べる。
「このたまものは、ブランハム伝説をさらに発展させるのに大きく貢献した」(ハレル、全てのものは、可能である、ページ38)

ブランハムは、申し立てによると仲間によって殺された「魚」を復活させた。(同上ページ89)
ブランハムの働きに付随している混乱と二心は、彼の経歴の初期において明白である。
彼の天使が「神は、あなたを世界の人々が神の癒やしのたまものを受けるために行かせる」と約束したと主張して、多くの場所の癒やしクルセードを指揮して、大くの群衆を引きつけた後に、ブランハムは1948年5月に突然、彼が病気だと発表して、働きをやめた!(ハレル ページ32)
5ヵ月後に、彼は彼の集会を再開した。

フランクリン・ホール
ペンテコステ的伝道者であり、影響力がある本「断食することと祈りを通しての神と共なる原子的な力」の著者フランクリン・ホールは、断食することと祈りは、終わりの時のための使徒的奇跡の回復のための手段であることを教えた。
彼は、「体で感じる救い」の教義をそれが「普通の癒やしパワーより700%偉大である」ことを宣言し、促進した。(ハレル、「全てのものは、可能である」ページ212)

彼は、病気、疲労の可能性と体臭さえ除去する「火」を教えた(「ペンテコステの辞書」ページ346)
ホールによれば、体で感じる救いまたは聖霊の火が確立され、それが人の体の至る所に「人々が完全に全ての疲労と全ての病気より上に生きることができるように」巡回する迄には、およそ30日かかるという。
彼は、ホール姉妹は15年の間、疲労がなかったと報告した。

彼は言う、もう一人の女性、セルマ・ムーアが6ヵ月の間同じ靴下を洗うことなく着用したと。そして、それは固くならないし、それには少しの不快な臭気もなかったと。
彼は彼の会衆の上に栄光雲が浮かぶと主張した、そして彼は、群衆に左手をあげ、「ハローイエス」というなら、彼らはイエスの香りをかぐと教えた。
彼はさらにイエスの香りに非常に浴している人々に警告した ― 彼らが(イエスの香りのため)違ったにおいがするので、彼らの犬は彼らを認めることができないだろうと。そして、この香りが「聖霊害虫駆除者」なので、彼らの家は害虫証明となるだろうと。
1960年に、ホールは死者を生かすことに関する彼の公式を発表した。

キャサリン・クールマン

非常に影響力がある女性伝道者癒し手キャサリン・クールマン(1907-1976)は、異端のもう一つの例であり、雨運動を特徴づける誇張の例である。
1940年代後期に、クールマンは身体の癒しがイエス・キリストの贖罪の中で提供されていることを教え始めた。
1947年に彼女は、ペンテコステの奇跡は今日、経験されるべきであるとそれを説いた。キリスト教徒は、イエスが実行したと同じ奇跡、いやそれ以上のことを、今日経験できると主張した。

「あらゆる教会は、ペンテコステの奇跡を経験していなければならない。
あらゆる教会は、使徒行伝の癒やしを見ていなければならない」(キャサリン・クールマン(ジェイミ・バッキンガム、運命の娘、104ページから引用)

彼女は、「主の癒やしのタッチ」と題される小冊子を出版した。
しかし、クールマンは決してイエスの奇跡をすることができなかった。
クールマン集会で起こった若干の有機的な癒やしが文書化されたと主張された、しかし、それらは極めて少なかった。それらは実際、しるしたまものが終わったと信じ、その上で癒やしを願い求め、神の完全な意志に任せるキリスト教徒によって経験される癒しと比較してもそれ以下の数である。
彼の本「癒やし: 医者は奇跡を捜す」の中で、ウィリアム・ノレン博士は1章全部をクールマンいやしクルセードを調査した彼の経験に関して用いている。

人間としてクールマンに同感を覚えつつ、大きな数の人の身体の癒しが主張されているのに、ノレンは医学的に一つの癒し例さえ文書化することができなかった。
彼の調査の時点で、ノレン博士は、ミネソタ州チッチフイールド、ミーカー郡病院における外科のチーフであった。

ピッツバーグのカーネギー音楽ホールで1948年にクールマン癒やしクルセードをカバーしたレポーターは、証言した:
「癒しを宣言したあらゆる人は、多く闇に消えていき、彼らが来た時と同じくらい惨めで悲嘆にくれていった。」(ウエインワーナー、「奇跡の後の女性」:キャサリン・クールマン145ページ)

カート・コッフは、有名な伝道者である、オカルトの研究者であった
彼の本「オカルトABC」で、彼はキャサリン・クールマンの癒やしミニストリーの研究を記述する。
彼は、ミネソタ、ミネアポリス地域で癒やしがあったとされている28のケースのリストを慎重に追求した。
これらのケースは、彼女の働きの下で起こった癒やしの最高の例として、クールマン組織によって彼に提出された。

以下は、彼の調査結果の概要である:
「10人は癒やされなかった、7人は彼らの状態の改良を経験した、11人は心が重要な部分を占める病気を持っていた。
この大規模なレポートの全体において、器官の病気の癒やしの明白な例は一つもない」(カート・コッフ、オカルトABC、雄大な急流:クレゲル出版社、1981年)
クールマンは、彼らがステージに近づいて、証言することをしないならば、人々が癒やされることができても、その後、癒やしを失うことがあると教えた。

彼女の後年においては、教派的に多様な群衆を率いて、クールマンは非常にエキュメニカル的だった。そして彼女は、彼らが自分の教会を離れず、癒やし力としてそこに帰るよう説得した。
クールマンはまた、目的を持って積極的なメッセージを説教した。そして、学理上の誤りをさらすことをせず、酒を飲むことや他の社会的な悪に対して警告することを拒否した。
彼女は、積極的な福音がより達成することを信じた。
彼女の伝記作者は、クールマンがプロテスタントとカトリックの間のギャップを埋めるのを手伝うことに貢献したと言う(ワーナー、ページ163)
クールマンは、マライア・ワードワースエターによって強く影響されており、インディアナポリスで彼女のために時折説教をした。

非聖書的であることと「霊で倒す事」の危険な実行は、両女性の礼拝においてしばしば見られたことである。

彼女に同情的なペンテコステ的伝記作者、後年のジェイミ・バッキンガムさえ、高価な服と宝石、フアーストクラス生活様式に対するクールマンの過度の執着、を隠すことができなかった。
彼女の伝道の働きは、毎年2-300万ドルも収入があった。
2,000席のデンバー・リバイバル大会堂を1930年代半ばに牧す間、クールマンは既婚の伝道者バロース・ワルトリップと恋愛関係に陥った。そして、彼はその後彼の妻と2人の子供のもとを去って、彼女と結婚した。

クールマンとワルトリップは、結婚の前2-3年の間、恋愛状態であった。
彼の1937年6月の離婚の、その2年前である1935年の夏に、ワルトリップとクールマンは、礼拝の前に、教会事務所内で抱きあい、キスしているところを見られている。
1938年10月に彼等は結婚した。
彼女の不法な結婚の数年後に、クールマンはワルトリップを去った。そして、神が彼女に人に対する愛情と神とその召しに対する愛情との間の選択を与えたと主張した。
ワルトリップの最初の妻は、一人残され彼女の2人の息子を育てあげ、彼女の夫の負債を清算した。

彼は彼らを訪問するために帰ることは決してなかった、そして、彼は法廷で定められた子供への支払い仕送りさえすることはなかった。
クールマンとの離婚の後、ワルトリップは人々の視界から消えた。
彼の兄弟は彼が、女性からお金をとったとして有罪となり、カリフォルニア刑務所で、死んだことを後で知った。

艱難前携挙説と2段階再臨説

資料が長いので 先にコメントを書きます。

第二 テサロニケ
4:14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4:15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。


マタイによる福音書24:37~42の言葉「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のよう
であろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなど
していた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の
子の現れるのも、そのようであろう。そのとき、ふたりの者が畑にいると、一人は取り去られ、一人は残さ
れるであろう。二人の女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。だから
目をさましていなさい。いつの日に あなたがたの主がこられるのか、あなたがたにはわからないからである。」

携挙というのは、この部分から 言われているのですが、

4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり
、  主の再臨の時に この様な事が起こると あります。これは 主の再臨の時に起こると 読み取れます。 又その時まで 人々は 気づかず 突然で あると かいてあります。

すなわち 第三の波の教理のように 2度再臨があれば  ごく単純に 次は そろそろ と言う風に
解ってしまうのではないでしょうか。突然起こるとすれば かなり 現実として 無理があるように思います。
確かなのは艱難の 後 イエスキリストが再臨される と言うのは まちがいの無いことでありますから
この時に携挙があるのは 間違いないのです。
艱難前に携挙があると 2度 携挙があることになります。
再臨と 携挙はセットになっているので
2度の携挙と 2度の再臨というのは どう 曲解しているのか 理解に苦しみます。
聖書をよく読むと この様ないつわりは 明らかにされてしまうのです。
資料を見ていただければ この 教理の 出所も明らかです

以下資料
怪しい艱難前携挙説;

さて、そんな中で一つの事実を取り上げよう。それは今世界のプ
ロテスタントの約半分が信じている教理であって、キリスト教徒がこの文章を読んだら必ず私を異端視する
かもしれないほど重要な教えとなっている間題である。一八世紀に「携挙」Raptureという教えがプロテスタ
ントに生まれた。それはキリストの再臨が二度起こるというものであった。よく知られているようにキリス
トの肉体での地上への帰還を再臨というが、その前に、「空中再臨」というのがあって、世界に襲い来る患
難の時代の前に、キリストが空中に来られて忠実なキリスト教徒を生きながらに空中に引き上げそのまま天
国に連れて行く、その後、地上には最終戦争が起こり、殺毅と荒廃が地を覆う、そして地上の人間が死に絶
える寸前になってキリストが聖徒と共に地上に再臨し、世界の軍隊を滅ぽし平和をもたらすというものであ
る。「患難期前再臨説」という。考えて見ればずいぶん手前勝手な御都合主義なのだが、これが真面目に世
界のプロテスタントの半分で信じられているし、実をいうとつい昨日まで私も信じていた。実はこの教理の
元になったという聖書の御言葉がある。

「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々
より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッバの鳴り響
くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみ
がえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、
こうして、いつも主と共にいることであろう。だからあなた方は、これらの言葉を持って互いに慰め合いな
さい」Iテサロニケ4:15~18しかし、この言葉から再臨が二度あると読み取ることもできない。またもう一つの
聖書の裏付けとして、マタイによる福音書24:37~42の言葉「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のよう
であろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなど
していた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の
子の現れるのも、そのようであろう。そのとき、ふたりの者が畑にいると、一人は取り去られ、一人は残さ
れるであろう。二人の女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。だから
目をさましていなさい。いつの日に あなたがたの主がこられるのか、あなたがたにはわからないからである。」が用いられている。

しかし、こ
こも再臨が二度あるという前提で読むとそう思えるが、まったく白紙で読んだ場合、再臨が二度あることの
証明にはならない。取り去られる、取り残されると言う言葉がその後もう一度本当のキリストが来るという
意味を積極的に述ベているとは言えない。ここで注意しておきたいのは携挙と言う形態がないと言っている
のではなく、二段階(または時間差)の再臨はないと言っているのである。ところが実はこれらの聖書の言
葉から空中再臨と携挙が導き出されたのではないのである。もともと一八世紀のクリスチャンたちは今日言
われている「千年期後再臨説」を信じていた。それは再臨は一度だけでその時クリスチャンたちはキリスト
に会う、それが本来この箇所の聖書の意味とされて来た。しかし、イエズス会と友好的なスコットランド、
アイルランド、イングランドのプロテスタントのグループがこの秘密の携挙を説教し始めたのである。もう
一度言うが、この教えは本当は上記の聖書の言葉から始まったのではない。

それは全く別の方向から来たの
である。ゴードン・メルトンの『アメリカ宗教辞典』によるとこの考えは一八三○年にマーガレット・マク
ドナルドから始まったとされている。イギリス人ロバート・ノートン博士はチ
ャネラーまたは霊媒であるマーガレット・マクドナルドから彼女の見た幻について聞き、また彼女自身が書
いたものを受け取った。一方、アーヴィング派もラビ・ベン・エズラというペンネームを持つスペインから
の亡命ユダヤ人でイエズス会士のエマニエル・ラカンタから教えを受けてこの教えを広めている。マーガレ
ヅト・マクドナルドはスコヅトランドのポート・グラスゴーに住んでいた一八三○年二月一日に「帰って来
たキリストにクリスチャンたちが個々に携挙される」最初の幻を見た。ノートン博士はこれをThe Restoration
of Apostlesand Prophets; In Catholic Apostlic Church in 1861いう本の中に書いているがこれは非常に希にしか目に
することが出来ない本である。この教えはさらに「千年期前再臨説」Premilialismというのとセットになって
いる。それはこうして再臨されたキリストがュダヤ人の王として(この辺がうさん臭いではないか)世界を
一○○○年間支配するというものである。ところがその時キリスト教徒はどうなるのかというとこれが全く
判らないのである。読者は何をばかげた事を言っているかと思われるかもしれないがこのような論争は欧米
では極めて重大な間題なのだ。

アイルランド人のジョーン・ダービー、ロバート ノートン、幾人かのアーブィング派、
その他の人々がマーガレットの家に行って幻について聞いた。エドワード・アーヴィングは手紙にこう書い
ている。「メアリー・キャンベルとマーガレット・マクドナルドの幻と啓示は私に表現し難い霊的な認罪と
悔い改めをもたらした」アーヴィングがマーガレットの幻について説教を始めるのにはそんなに長い時間を
必要としなかった。また彼はラカンタがイユズス会の僧侶であることを良く知りながらラカンタの著書を翻
訳し始めた。ラカンタの患難期前再臨説の初期の言及ははすでに一八二○年代に現れていた。ダービーが大
きな影響を与えたプレマス・ブレズレンと言う団体は、ダービー以前、一八三一年にキャプテン・バーシ
ー・ホールによってこの患難期前再臨説を紹介されている。ダービーとスコフィールドと言う二人の法律家
がアメリカでこの教説を広めた。ダービーは一八六○年代から七○年代にかけてアメリカを巡って携挙の教
えを促進した。これらブレズレン派のエドワード・クローニンらはプロテスタント運動の行き過ぎを是正す
るオックスフォード運動を導いたが、クローニンは「自由、平等、博愛」のフリーメーソンのスローガンを
掲げた。この運動を影で操っていたのはイエズス会であった。オックスフォード運動家の一人、ロパート・
パクスターは天使とのコミュニケーションによる預言を発表したが、後年それはサタンからのものだったと
述懐している。

ところでプレマス・ブレズレンにしてもイエズス会にしてもそのトッブはかように怪Lげな思想を持っていた
が、不思議なものでごく一般の信者や会士は至極純粋な信仰を持っていた。それと言うのもキリスト教とい
うものは厳密に自発的なものであって、決して脅追や強制によって信仰を持つ事も継続する事も出来ないか
らである。キリスト教の最大の特徴はこの『信仰の自由』であってこれは何人も犯してはならないものであ
る。だから、一般信者や長い年月の間には淘汰されて本当の信仰だけが残るものである。これに反して新興
宗教の多くが強制、脅追、洗脳を拡大の手段としているのは人間の魂の尊厳に対する挑戦であり、結局、長
い年月の試練には耐えられないものなのである。「中世の終りに現れた千年王国リバイパルは、中世まで生
き残った旧約聖書と天文学の現象(占星術)の学びによるュダヤ黙示主義によるものであり、メシヤの現れ
とその王国の実現を断言するものである」V.ノルスコブ・オルセン「メシヤの希望はいかなる時もイスラエ
ル民族から失われた事はない」アパ・ヒレル・シルパー「王なるメシヤは未来において現れるであろう、そ
して、昔のダビデの王国を立て直し、神殿を再建し、イスラエル民族を集め、すべての律法はかつてのよう
に実施される」マイモニデス(偉大なユダヤ人哲学者)

これらの信仰は、今日、プロテスタントの半分が信している、死者のよみがえり、最後の審判、新しいエル
サレムを含んでいる。ただ違うのはその王メシヤが再臨のイェスその人ではなく、ダビデの血統を継ぐ人物
と言うだけである。千年王国説とか千年期前再臨説とか呼ばれるこの信仰は、全くユダヤ思想に焼き印され
たものだとマルチン・ルター、カルビン、アウグスブルグ信仰告白は言っている。

千年王国説の信仰とカパリステイック・オカルトはイギリスにスチュワート王朝の時代に入って来た。その
時、極秘の内にイエスの子孫の血統と称する人々が王位についた。
この時代にイギリスでピューリタン(清教徒)が始まった。ピューリタンの中ではこの千年王国信仰は非常
なスケールで広がった。ピューリタンのもう一つの重大な要素はユダヤ・カパリズムのオカルトであった。
ビューリタンの拡大があまりにも急激だったのでイギリスでは政治的な圧迫を受けたために、彼らは新天地
アメリカに移動した。この最初のピューリタン移民をピルグリムと呼ぶ。その子孫は今日アメリカのイルミ
ナティの最高位にある。彼らはマサチューセッツとコネチカットに住んだ。彼らの中心的指導者はジョナサ
ン・エドワースであった。

この有能な人物は千年王国説を理論的に発展させた。来るべきュダヤ人のメシヤ
による千年王国の信仰はピューリタンに、自分たちがこれを
世界に知らしめる、神からの使命を帯びていると思わせた。それは今日エホパの証人とモルモン教が取って
いる見解である。さてここまではプロテスタントの中にユダヤ・カパリストたちがいかに巧妙に入り込んで
いるかを見て来た。他にも私など計り知ることもできない形で彼らは入り込んでいる。例えば聖書そのもの
の変更もひどい。重要な言葉や思想がなしくずしに聖書から消え失せている。その他、特に最近では「可能
性思考」「繁栄の神学」「インナーヒーリング」などが巧妙にプロテスタントを骨抜きにしている。

ユダ
ヤ・カバリスト(またはいっその事サタニストと呼ぶほうが正しいだろうが)がどうしてそんなにも簡単に
キリスト教内部に入り込む事が出来るのかと言えば、それらの教説には聖書的根拠と思われるものがあるか
らで、初めからサタンの教えですよなどとやって来るわけではないからである。エパを輻した時のサタンも
ちやんと神の言葉を使っている。しかし、最近多くの教派や学者たちがこの携拳について疑間を表明するよ
うになった。聖書本来の趣旨とは違っていると言い出している。この携挙信仰の最大の問題はクリスチャン
がサタンの働きに対して警戒心を持たず、破壊工作に寛容遇ぎる態度を持つようになった事である。おそら
くクリスチャンたち(特にアメリカの)は近い将来起こる迫害の嵐を突然起こった突風のように思うだろう
が、 それははるか昔から計画されているのである。しかし、聖書も主キリストもはっきりと終末におけるクリスチャンの苦難を預言している。また、千年王国説もカパリスト・ユダヤの思いどおりになっている。プロテスタントでも改革派はこの説をまったく受け入れていない。 -----------------------------7d55d14360064 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream 1

第三の波の実態 と嘘で塗り固めた リバイバル

以下のリンクはエレミア氏のhpから許可を得て転載しています。
およその概略でありますが 以下のリンクを 見ていただければ 詳しく膨大な資料があります。

第三の波とは

ペンサコーラリバイバルとう大きなムーブメントがありましたが 私たちも最初は信じ込んでいました。
がペンサコーラ市の新聞社 (マスコミ)がこのリバイバルを調査し取材したところ 以下にあるような嘘が発覚してきました。

私が以前所属していた ビジネスマンの会では 最初はまとも だったが 奇跡などが起こり 沢山のゆがんだ 信仰の人が集まってきて この様な怪しげな 聖会になったんだ と いう苦しい答弁を聞いた事がありますが。

このペンサコーラリバイバル聖会を組織している 人たちが 嘘を言い人を偽りに導こうとしているのを見て取れます。 教会で行われている いやし が 本当に主から来たものか 確かめてみる必要があると思います。このペンサコーラニュースジャーナルはこの取材で 賞を得たそうです。
偽り物のばか者を賞賛する多くの教会はどうにか しているのでは ないでしょうか この様な人集めのために偽りを言わず本当に キリストを信じる 真の信仰者として 歩まれることを 希望いたします。

ペンサコーラの嘘:
神の力あるわざが現れているはずのトロント、ペンサコーラのリバイバルですが、
その実態は調べて見る時、多くの偽りと真実から懸け離れた事実があるようです。
以下は、これらの問題を調査しているペンサコーラニュースジャーナルからの抜粋。
------------------------------------

笑いのリバイバル:
1世紀にわたるペンテコステの「後の雨運動」の中に見られる混乱は、最近の笑いのリバイバルにおいて更に顕著である。(これは、トロントブレッシング、ペンサコーラリバイバルとして知られている)
笑いのリバイバルの中で起きたと主張されている多くの驚くべきいやしが、それは偽りであると証明された。
一般的に、調査者が「いやし」を確認しようとすると、そのことがらをバックアップする何らの証拠もないことに気付く。ペンサコーラニューズジャーナル誌は、アッセンブリーズオブゴッド、ブラウンズビル集会で起きたとされる奇跡的ないやしを熱心に文書化しようとするが、しかし、他の州からの何人かの訪問者を追跡するだけで、たった一つのいやしさえ、医学的確証を得る事はできないのである。
(ペンサコーラニュースジャーナル1997年11月20日付け「奇跡的ないやしには、何らの医学的な証拠はない」)

アッセンブリーズオブゴッドブラウンズビルの指導者達は、多くの大きなわざがあると主張をするが、それは偽りであることが証明された。4ヶ月にわたる「ペンサコーラ現象」の調査の上でペンサコーラニュースジャーナルは、多くの偽りと誇張を暴き出した。

私はペンサコーラニュースジャーナルによる長文のレポート、さらにインターネット上にブラウンズビル集会が掲載した短い回答も読んだ。私の推察では、ブラウンズビル集会の回答は、多くの批判をかわす煙幕である。
他の人々もこれを見た。この件に関する「ペンサコーラニュースジャーナルへのブラウンズビル回答の問題」と題する確認は、www.geocities.com/~contenders/pnjbagreply.htm.に掲載されている。

私は、ブラウンズビルから更なる情報を得ようと試みた。しかし、彼等は私の要求を完全に無視した。
以下は、ペンサコーラに関係する「話」とそれを調べた後、判明した「事実」である。

-----------------------------
話:彼の自伝「石の冷たい心」で、ブラウンズビル伝道者ステーブヒルは、自分は13回逮捕されたと語っている。
事実:書類にできる逮捕は4回だけである。

話:ヒルは自分は麻薬中毒であったといっている。
事実:彼はペンサコーラニューズジャーナル誌に、これが真実でないこと、大きな印象を与えるために、彼の麻薬使用の話を誇張したことを認めた。

話:彼は3年間、国を放浪し、まともでない仕事をし、麻薬を使用したり、売ったりしたという。
事実:雇用記録によると彼はアラバマ、ハンツビルで、その3年間の間、フルタイムの仕事をしていた。

話:彼は、高校を退学させられた。
事実: 彼は、ペンサコーラニュースジャーナルにこんなことは、全くなかったことを認めた。彼は更に公表された彼の証の他の詳細な部分は正確でなく、何人かの名前に至っては、作り話であることを認めた。(この情報は、ペンサコーラニュースジャーナル1997年11月18日付けの記事「ヒルの経歴には誤りが伴う、リバイバルの指導者は、話を大きくしたことを認める」からのもの)我々は再度、ブラウンズビルから更なる情報をこの件に関して得るべく試みた、しかし、我々の要求は、完全に無視された。

話:ブラウンズビルの指導者の話ではリバイバルはペンサコーラ及び近隣地域の重大な犯罪減少をもたらした。
事実:エスカンビア郡の警察の犯罪及び逮捕統計によれば、犯罪は、リバイバルが起きた1995年に比べて1996年には、事実上昇している。エスカンビア警官のジム・ローマンは、リバイバルが犯罪数に大きな影響を与えたことを見ていないと語っている。エスカンビア警察署の統計は、少年の逮捕数は、その前年に比べて1996年には、1243件から、2392件とほぼ2倍になっていることを示している。
(ペンサコーラニュースジャーナル1997年11月20日付け「エスカンビア警察は、犯罪減少との話に異義を唱える」)

話: ブラウンズビルの指導者は、リバイバルが麻薬取り引き者や使用者が回心させたため、この地域における麻薬使用を減少させたという。
事実:麻薬中毒の治療センターの長である地域の責任者はこの情報を否定した。The Friaryと呼ばれる
治療センターの代表デイレクターであるレオ・ドナリーは、入所者は1993-94年の250人から、1996-97年の398人へと増加していると語る。ツエルブオークスセンターの話では、彼等の仕事はほぼ
2倍になったとのことである。ペンサコーラニューズジャーナル誌が取材した他の治療センターもしくは麻薬中毒機関においてこの問題の減少を語るものは誰もいなかった。また、誰もブラウンズビルリバイバルのゆえに(麻薬)治療の必要がなくなった何らかのケースも知らないとのことである。

話:ブラウンズビルの指導者の話では、法律執行官達は、リバイバルにいたく感動した為、
時々、彼等は被疑者を牢獄へ入れるかわりにリバイバルへ連れていく。
事実:「そんなことは決してない」とエスカンビア署長ジム・ローマンは語る、「それは単純に起きえないことである、何故ならそんなことをすれば、法執行手続きを侵すことになるからだ。」
「我々は我々または何か他の法執行機関がそのようなことを行ったとの何らの情報も得ていない。」
ペンサコーラ警察アシスタントチーフのジェリーポッツは、今迄たくさんの人々から、そのような話が本当かどうか尋ねられたという。ポッツは語る、強調させていただきたい、彼の警察官の誰一人としてそのような行動を取った者はいないと。

話:ブラウンズビル指導者は、いう。リバイバルの影響力は、過去の真のリバイバルのような様式でこの全地域に触れたので売春婦、麻薬、及び街頭における犯罪を解消した。
事実:これは真実ではない。住民は言う。「実際起きていることは、売春婦が教会から
住宅に近付いてきたということです。」教会から1
ブロック離れた所に住むドリー・ライスは語る。「今は、売春婦が自動車で私達の子供が遊んでいる通りを行ったり来りしているわ」アッセンブリーズオブゴッドブラウンズビル教会から、2ー3ブロック離れた所に50年以上も住んでいるロスコー・アーバニアクの言葉では、他の犯罪は上昇ぎみであり、近隣中で不安をかきおこしていると言う。
彼はニューズジャーナルに、近隣の年輩の婦人は、最近、財布の強奪が増えているので、家から出る事を恐れていると語っている。(ペンサコーラニュースジャーナル1997年11月20日付け、キンベリーブレイル「隣人は、リバイバルから何らの益も見ていない」)

話:ブランズビルの指導者は、ペンサコーラリバイバルは、1995年6
月18日に自然発生的に起きたものであるという。
事実:6月18日の前の何週間かの間、牧師の妻を含む多くのブラウンズビル教会の中心メンバーがトロントを訪れ、彼等は熱心に同じ経験がブラウンズビルに起こるべく求めた。
6月18日の前に、トロント現象のビデオがペンサコーラ会衆の前に上映され、会衆に同じものを求めるべく奨励された。6月18日の前にキルパトリック牧師は、ブラウンズビルに笑いのリバイバルを求めることを何度も語り、もし教会がこれを受け入れないなら、辞めると脅した。(ペンサコーラニューズジャーナル1997年11月19日付け「牧師達は最初のリバイバルを画策した。ヒルがしつこく急がせた為、会衆は反応した」)

ペンテコステの伝道者ステーブヒルは、決して偶然に6月18日にブラウンズビルの集会で語るよう、選ばれたわけではない。彼は、キルバトリック牧師により選ばれた。何故なら、彼は笑いのリバイバルに入り込むことを熱心に望んでおり、長く続く後の雨リバイバルを行う場所を望んでいたからである。ヒルは最近、イギリス、ロンドンのホーリートリニテイブロンプトンにおいて笑いのリバイバルの油注ぎを求めた。

話:ブラウンズビルの指導者はいう、6月18日に力強い風が教会中を駆け抜けたと。それは
そこに出席している全ての人に影響を与え、多くの人が床に倒れた、それは神の超自然的な力強い動きであると。
事実: 6月18日のビデオ記録及び当日出席していた人々の証言は、その話を否定する。
大変はっきりしていることは、実際は、このできごとは、伝道者ステーブヒルにより、大きく
操作されていたということである。
彼が最初に按手するため、人々を前に招いた時、ただ、9人の人々が倒れた、しかし、ヒルは続けて、群集をだまし続けた。結果として、更に6人、その後、数人が倒れた。
これらは全て、ヒルにより操作されたように見える。 実際、ヒルの叫び、招き、誘いにもかかわらず、ほんの少しのことしか起きなかった、これは当惑させる。人々が教会から、帰ろうとした時、
ヒルは、帰らないように叫んだ。
明らかにあきらめたようにヒルは子供達に前に出るように呼んだ。 彼は子供達に彼が祈るので
彼らが地に倒れるといった。彼の励ましにもかかわらず、ただ一人の小さな少女が倒れた。

話:ペンサコーラニュースジャーナルへの回答として、ブラウンズビルアッセンブリーズオブゴッドは、ジャーナルの教会から、昔からの会員の大規模な数の脱会があったという記述は間違っていると
主張する。以下がブラウンズビルのネット上に記載されている正確な記述である。
「ブラウンズビルアッセンブリーズオブゴッド教会においてリバイバルが起きてから、150人以下の以前の会員が、会員を辞めるもしくは、移動した、一方、1530人の新しい会員が加えられた。
25年以上教会員となっている人の中では、誰も教会を辞めた人はいないし、リバイバルが始まってから、27人中ただ、4人のオフイシアルが教会を去った。
簡単にいえば、ジャーナルに記されている、不明な会員により主張されている大きな脱会という事実はない。」
事実:この文章は、技術的には、真実かもしれない。しかし、これは実際の状況を隠すための試みである。
事実は、キルパトリックの最も近い多くの知人達は、彼のリバイバルを拒否した。これは、ジョン・キルパトリックにより、認められている。例えば、 1997年6月7日、ワシントンDCのナショナルチヤーチオブゴッド教会の説教で、彼は、「我々はこの神の働きにより、この世において、持っていた全ての最も良い友人を失った。我々は彼等全てを失った。」この「全て」ということばに注目して下さい。
問題となっているペンサコーラニュースジャーナルの記事は、1997年11月17日付けの記事「悲しみ、恐れがブラウンズビルを離れた会員を満たす」である。

ブラウンズビルの回答は煙幕である。それは、ただ、ジャーナルの報告の多くをかわすだけである。ジャーナルは例えば、キルトパックは、去っていった者は、悪霊につかれた、またリバイバルに反対する者は、被害を受けるいう預言をしているという。

この申し立ては事実である。6月7日のワシントンDCにおける彼のメッセージで、キルトパックは、リバイバルのゆえに教会を出た会員に関して特定して、彼女は悪霊つきになったと述べている。

話:トロントエアポートチヤーチのジョンアーノットは、サラ・リリーマンのいやしは、笑いのリバイバルの中で行われた鍵となる奇跡の例であると述べている。アーノットによると、リリマンは野菜のように、全く無能力であり、まひして、盲目であった。
トロント教会に出席していた、彼女の友人の一人が、聖霊により倒された後、イエスの幻を見、サラの所に行くよういわれた、彼が彼女をいやすからだと。アーノットの話では、リリーマンは結果として、立ち上がり見えるようになったという。
事実:「カウンターリバイバル(偽りのリバイバル)」の中で、ハンク・ハネグラフは、この偽りの話を暴いている。彼は、この話は、大きく脚色されているという、サラ・リリーマンは、完全な無能力者でも、マヒしても、盲目でもない、それは彼女の医師が、肉体的な問題を見つつ、心身症の感情的な問題を診断していたからだ。
今日、アーノット及び、彼の同労者により、トロントブレッシングの神の力の証拠として、大きく広められたこの話にもかかわらず、サラ・リリーマンは相変わらず、以前と同じように、法律的に盲目である。不幸にも以前と同じように、彼女と彼女の家族は、彼女の肉体的及び心身症的問題と戦い続け
ている。(「カウンターフェイトリバイバル」ページ60)
ハネグラフのリリーマンに関する証言は、「ジョンルーベンはハネグラフが正しいことを認めた」
という以下の記事で入手できる。
www.geocities.com/~contenders/lilliman.htm.

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このHPの責任者から:
我々は「善意のクリスチャンのうっかりした誤り」や、ちょっとした数字の間違いを非難、指摘するつもりはありません。それらは、兄弟姉妹として許しあえるものだからです。しかし、ここに記されている、これらの偽りのレベルは「クリスチャンのうっかりした誤り」をはるかに超えています。

このように、調べればすぐわかる嘘を平気でついてまで、世界中に広げようとする「彼等のリバイバル」がどのような霊なのか、我々はよくよく吟味する必要があるのではないでしょうか。
1

私達はその神が選んだ権威

神がどの様な人を教会の権威として選ぶのか、また私達はその神が選んだ権威
に どう対応すべきか、接するべきかということを見ていきたいと 思います。

テキストに沿って見ます。

”1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ
人の女のことで彼を非難 した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。”

ここでモーセの姉であるミリヤムと兄アロンがモーセを非難しました。
彼等は兄、姉だから、当然モーセより年長であり、だから自分達にはモーセを
非難する 資格があると理解したのです。

今でいえば、自分が年上であるからといって、教会で神の働き人を非難する人
々とでもいえるでしょ うか。

年輩の役員、長老あたりが、「あんな若造の牧師より、俺の方がいくらでも社
会経験も知識もある」 というわけです。こんなパターンは、
往々にして教会であり得るパターンではありますが、
しかし、それが神の前で正しい態度かどうかは別です。

さらにミリアム、モーセ、彼等のいっているその非難の内容も妥当に思えます。
モーセがクシュ人の 女をめとっているのも客観的にもあまりよいことの様に
思えません。 ですから、彼等の非難は人間的に見て妥当の様に、思えます。

今でいえば、もっともなことをいって牧師や働き人をとっちめる人々というこ
とでしょうか。

箸の上げ下ろしから、費用の使い方、家族のこと、私生活のこまごましたこと
まで。 それらの非難には、妥当に見えるものもあるでしょうが、しかし、
神の前に正しいかどうかは別で す。

”2 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちと
も話されたのではないで しょうか。」主はこれを聞かれた。”

アロン、ミリアム彼等には、モーセを非難する資格が神の前にもあると思えま
した。

何故なら、自分達は神の声を聞いているからです。
教会でもこんな類いの人がいます。「信仰にかけては、私だってうちの牧師く
らいの 信仰はあるわ。ちゃんと神の声をききわけているわよ」

もちろんそれはそうなのでしょうが、しかし、それだからといって、神の立て
られた権威に逆らうべ きかどうか、それが神の前に妥当かどうかは別です。

何故なら、神はその非難を聞かれるからです。「主はこれを聞かれた」と書か
れている通りです。

”3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

この時、神が選び立てた権威であるモーセに関して彼が「地上のだれにもまさ
って非常に謙遜」であ ったことが書かれています。

謙遜とは、でしゃばったり、角ばったり、自分がないがしろにされてもやみく
もに権威を主張しない 人だということでしょう。今でいえば、
自分を主張しない人、結果、今みたいな弱肉強食の時代にお
いては、ないがしろにされたり、すぐ楯つかれたりしやすい人です。

不思議なことですが、神が教会の権威として立てる人にはこういうタイプの人
が多い様に思えます。 結果、見えるところしか見ない人には、
すぐなめられたり、反抗されたりしがちです。

しかし、人間的にくみしやすい、いいやすいからといって、神の立てられた権
威に逆らうべきかどう かは別です。むしろその結果は重大なものとなることが
多いのです。

”4 そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会
見の天幕の所へ出よ。」 と言われたので、彼ら三人は出て行った。
5 主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリ
ヤムを呼ばれた。ふたり が出て行くと、
6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者
であるなら、主であるわ たしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、
夢の中でその者に語る。
7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて
忠実な者である。
8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしな
い。彼はまた、主の姿を 仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべ
モーセを恐れずに非難するのか。」”

さて、モーセへの非難に対して、神御自身が答えられました。
このパターン、法則を覚えてください。

ある人が神の家の権威に立てられたなら、そして、それが神の立てられた人な
ら、 彼への非難に対して、神御自身が答えられるのです。

子供どおしのケンカに対して親が出てくるのはよくありませんが、
しかし、教会におけるケンカ、神の立てられた権威に対しての反抗には神御自
身が対処を下す、 そのパターンを覚えてください。

そしてそれは、神御自身の対処なので、非常に厳しく、重大な結果をもたらし
ます。

この時、ミリアム、アロンの非難に対して、当事者であるモーセその人は何ら
の弁明も いいかえしもしていないことを覚えてください。

しかし、神御自身が対応されたのです。教会で牧師が気が弱そうだから、
いいたいことをいっても大丈夫だろうなどと考え違いをする人がいます。

確かに気の弱そうな牧師はいわれても何ら反論できないように見えるかもしれ
ませんが、 しかし、神御自身がいずれその人に反論するでしょう。

「7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じ
て忠実な者である。」

何故モーセが権威になったのか、彼が選ばれたその理由は何でしょう?
それは、この箇所を見る限り、モーセが忠実なものだったからであることがわ
かります。

ある人が神により権威が与えられるか否かの違いはその人が神の前に忠実なク
リスチャンかどうかに よることを覚えてください。

神の働き人として歩みたい、神により用いられたいと志す時、それはよい志で
すが、 しかし、忠実な者が用いられることを知りましょう。

忠実とは、
具体的には、どういうことか?
要するに毎日きちんと祈り、聖書を読み、神のみこころを行っている人という
ことでしょうか。

今、小さな奉仕をまかされているなら、それを忠実にこなすかどうかが、
その後の働きを決めるでしょう。
小さなことに忠実でない人に神からの大きな奉仕が回ってくるはずがありませ
ん。 はっきりいいますが、神がよしとしない限り、私達には何の働きも回ってきま
せん。

”8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはし
ない。彼はまた、主の姿 を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべ
モーセを恐れずに非難するのか。」”

彼等はモーセ個人を非難したつもりであり、何ら、神に対して、不満や反抗を
した つもりはなかったのでしょうが、しかし、神はそう取り、そう反応しました。

”なぜ、あなたがたは、「わたし」のしもべモーセを恐れずに非難するのか。
”とのことばに 注目してください。彼等はそれと知らず、神のしもべを非難
しており、 神御自身からの怒りを買いました。

この反抗はミリアムに恐ろしい結果をもたらしました。
ですから、神のしもべへの非難には、よくよく注意が必要であることを知りま
しょう。

人間は結局見える人しか見ないのですが、しかし、
神のしもべへの非難は、見えない神の怒りをかう可能性があります。
このことを恐れましょう。

”9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムは、らい病にかかり、雪のよ
うに白くなった。アロ ンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はらい病
にかかっていた。”

モーセを非難したミリアムは結果として重大、深刻な結末を我が身にもたらし、
自らがらい病をわずらうようになったのです。
恐ろしい害を自らにもたらしたのです。
このことを他人ごととせず、我々はよくよく、教訓を学ぶべきです。

神のしもべを非難し、神の授けた権威をあなどる時、自らに
深刻な神の罰が下る、この原則は、このモーセの時、そして
今も同じなのです。

”11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰
をどうか、私たちに負 わせないでください。
12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしな
いでください。」”

アロンは、「私たちが愚かで犯しました罪」と語っています。
彼はミリアムや自分の語ったモーセへのことばが、これ程、深刻な罰、結果を
もたらすとは 思わなかったのです。彼らは神に逆らうつもりもなかったし、そうする
意図など全くなかったのかもしれません。しかし、弟モーセを非難することは、
そのまま神の権威を侵すことであると他ならぬ神御自身が判断されたのです。

アロン、ミリアムのことは、今の私達に対する教訓として書かれていることを
知りましょう。

そして、悲しいことは、このミリアム、アロンのことがらを知りながら、なお
かつ 勇敢にも神の権威に逆らう人々が多いのが今の教会の現状なのです。

今の教会においては、神が教会に建てられた権威に逆らう声は多く、牧師、教
師に逆らう声は 多いのです。

さて、少し話はずれますが、ペンテ、カリスマ教会で今さかんに行われている

霊の戦いとは、人々を惑わし、巧妙に神の立てた権威に逆らわせよう、反抗さ
せようと する試みであることを知りましょう。

これは、神が御使いに与えた権威に対する反逆、反抗の試みです。
そして、この「霊の戦い」とかいう「仕組まれたわな」に踏み込んだ人々は、
皆深刻な 害、罰を受けています。ある人は、霊的におかしくなったり、
ある人は、けが、事故、頭痛を 含む肉体的な害、罰を受けています。
そればかりか、命を落とした人のことさえ聞いています。

愚かなこと、神の立てた権威にあえて逆らい、結果当然の罰を受けないように
しましょう。
たとえば、警察官は、日本の権威者として、権威を持ち、銃や警棒を持ちます。

あえて、警察官に殴り掛かったりする人は、反撃され、
警棒で殴られこぶをこしらえたり、もっと悪いときには、銃で撃たれて死亡し
たりします。

しかも撃たれて殺されても人からあまり同情されません。
「よりによって警察官に反抗したり、殴りかかったりするからそんな目に会う
んだ」 ということで、自業自得の様な扱いです。

愚かにも霊の戦いなどのインチキ教理に惑わされ、しきりにあちこち出かけて
は 御使いに戦いを挑み、その結果、深刻な害や、損害を受けている人はまさに
この警察官に殴り掛かる人と同じ愚かな愚行を行っていることに気付くべきな
のです。

ちなみに霊の戦いにいそしんでいる人々、グループ、団体、教会を見てみましょ
う。 大変失礼ですが、皆あまりまともな評判のない人々、グループではないでしょ
うか?
変なスキャンダルが起きたり、悪い噂が起きたり、訴訟はたまた異端扱いされ
ているところとか..。

もしかすると、多少例外があるかもしれませんが、あたらずとも遠からずでしょ
う。 彼らは自らの無知と聖書の基本を知らないその愚かさのゆえに神の権威を犯し、
結果深刻な害をその身に受けているのです。それにもこりず、自分のとこの信
者にそんな危険なこと を わざわざ勧めているのです。きわめつけおろかものです。

”13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてく
ださい。」
14 しかし主はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、
彼女は七日間、恥をか かせられたことになるではないか。彼女を七日間、
宿営の外に締め出しておかなければならない。そ
の後に彼女を連れ戻すことができる。」
15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻
されるまで、旅立たな かった。
16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。”

この時、集会の人としての長であるモーセはミリアムがすぐいやされる
様に祈りました。しかし、その祈りはすぐに聞かれず、ミリアムはしばらくの
間、らい病のまま、 宿営から追い出されてしまったのです。

このことは、今の教会においても同じ原則であることを知ってください。
私達は人のこと、見えることしか見ていません。
牧師に逆らおうと教会の権威に逆らおうと世間の人間関係と全く同じだと思っ
ているのです。

何かひどく牧師に反抗しても、あとで、悪いと思えば、一言あやまればそれで
終わり位に 思っているかもしれません。
確かに見える人である牧師や教会の権威を持っている人はそうかもしれません
が、 神にあってはそうも甘いものでないことをも知っておきましょう。

この時、あえてモーセに逆らったミリアムが思いもかけない深刻な罰を受けた
様に 今も神の権威に対する対処は同じなのであることを知りましょう。

教会はこの世と全く違うところであり、この世と違う、法則、原則があること
をしっかりと 知らなければなりません。あえて、神の権威に逆らう時、深刻な害
をその 身に受けるようになります。

私はその様にして、自らの信仰を破滅させた何人かの人を知っています。
神を恐れましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

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