化粧品サンプル

Home > あなたの教会でも

あなたの教会でも Archive

チョーヨンギ と魔術

信念の魔術 新装版価格:¥ 1,470(税込)

この本をみれば 明らかに チョーヨンギのメッセージと 同じであることが解る
目次では

潜在意識とは
暗示は力だ
イメージを描くこと
外界は心の投影

積極的なイメージを持ちつずければ 願いがかなうという もので キリストの キ の字も出てこない

己の欲望を満たすため へブル書の11を利用した大変忌々しいものである。

マタ 6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

詳しく読めば 彼のメッセージは ニューエイジ思考のようなものから来ていて
聖書的ではないことは わかる 

ビジネスマン 養成所のようで 成功に導くもの  として 聖書の教えと共に教えとし 惑わしを 行っているとしか 言いようが無い。

しかも この 種本をチョーが 知っていて 教えているとすれば 破壊のための回し者か
最初から悪意(悪意としか言いようが無い)があって このような 思想を 教会で 神の教えとしているなら 問題である。

成れの果ては 重婚し このような 魔術を教理を 教え 招待を暴かれ このような 魔術を利用し

自分で 罠に かかってしまった のである。

自分で描いたイメージは 一見この世では 成ったかもしれないが

神に対する罪という 大変な罪を 犯したのである。

自分で勝手に 描いたイメージの責任は取らなければならない


多くの日本の教会は チョーヨンギの方法を まね 成長させてきた 傾向がある。

多くの教会は悔い改め このような 自己の欲望を満たす 新興宗教を やめなければ

神の 裁きにあうと言う のは 当たり前である。

 

世の教師 新興宗教 キリスト教


ヨハネ
16:1 わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。
16:2 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。
16:3 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

世の教師たち 大教会の先生たち(教祖様)は 話の仕方 どういう風にすれば 人が話を聞くかを よく研究しており おそらく マニュアル化したものが あるはずです これらは 他の分野でも 

マーケッティング

戦争に対するプロパガンダ 

宗教 

などで よく使われています。
本来 するべき メッセージとは 神からの示しを語るのが 本来ですが 確かに 信徒たちが
解るように 話さなければなりません。しかしながら これらの 技法を使うなら 


汚れであり ぱんだね のメッセージに変わります。 

彼らの教会に 多くの人が集まるのは そのせいです。

話がうまいのです 聖書の一部しか 述べていません

要するに騙すのがうまい と言うことです。

早く気がつき 自分の思考回路で考えることが必要です。


注意!キリストの救いを自分たちの罪を隠すための屁理屈にして 何をしても救われると のたまう
今罪の実が実りつつある 昨今の不祥事に目を 瞑らず 目を覚ますべきである!!

それどころか 犯罪者までに 手をかす 極まりない 悪


変質したキリスト教に何故気がつかないか

貴方はクリスチャンでしょうか?幾分か 敬謙であり 教会に通っているとしても
未信者や友達の人を 教会に紹介できますか?

私は出来ませんでした なぜなら 新興宗教と 区別がつかないばかりか 分けの 解らない 教理が多くとうてい 正気とは 思えぬほどでした。
一世の クリスチャンとしての 私は 教会とはその様な もの と思い自分が間違っているのだと 思い込んでいました。

しかしながら 知り合いの クリスチャンが 殺人事件を起こし 又回りの 関係ある クリスチャンを 見て
異常な人たちだ と言うことに 気がつくように なりました。

調べていくうち 自分の教会も 韓国系の シャーマニズムを取り入れた教会(世界的に有名後に 牧師の重婚 や 聖書的でない 教理 など 多くの点で おかしいと きずき 教会を 出ることに しました
以前は この様なことを する人は 罪びとであり 神を裏切る もの と 思っていましたが

今では 自分の 方が まともで 他 の 人たちが 狂っている と はっきりいえます。

彼らにそのことを 話しても かれらは 
殆んど 聖書の知識がありませんので 話をしても聞いてもらえません。 
聖書的な思考無しで 物事をとらえています。

又牧師やちょっとした聖職者で読んでいたとしても 人の 解釈の受け売りで  自分の言葉で聖書を説明できない胡散臭い 人ばかりです。


では 聖なるキリストを 信じている人たちが どうして その様に なるのでしょうか?
常識的に 理解できませんでしたが 聖書に はっきりと 書いてあるの に 気がつきました。

教会は終末に背教 すると 聖書には 書かれています。


何故なのか? エレミヤ氏が適切な メッセージを 書いておられます。


通算No.68 背教に関して

テキスト:2テサロニケ2:3ー12
”3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”

本日は背教という題でメッセージをしていきたいと思います。
テキストに”背教”ということばが出てきます。この背教とは具体的にどういうことをさしているのか、それを見ていきたいと思うのです。

日本語の背教ということばは教えに背くというニュアンスです。教えとはキリストの教えであり、背くのはクリスチャンです。この言葉に関して、英語ではfall downー信仰から落ちるという表現が使われています。

ギリシャ語で、この言葉がどのように使用されているのか見てみます。以下で使用されています。

使徒の働き 21:21 ”ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。”

マタイの福音書 5:31 ”また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。”

この背教ということばが他ではそむく、離別とも訳されてます。要するに人から離れていくことと思われます。これらのことからはっきりわかることは、”背教”とはクリスチャンが神である主から離れていくことであり、信仰を失うことです。これらのことが終末におきるのです。

神から離れる、信仰を失う人はどの時代にもあります。しかし、わざわざ終末に関連してパウロが”まず背教が起り”と特記するということは、これが特別なことであること、大規模なことであることが想像されます。ここでまずクリスチャンの背教、そして反キリストの出現について書いてあります。ですから、この節以降の記事は基本的にクリスチャンに関して書かれたものであることがわかります。

さて本日の箇所をテキストに沿って見ていきたいと思います。

”神の宮の中に座を設け、”
神の宮は教会であり、反キリストは教会の長となります。反キリストはクリスチャンを惑わすものです。彼が神の宮の中に座す時、多くのクリスチャンが彼を拝するようになることが想像されます。

”あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。”
ひきとめる者は聖霊です。

”しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。”
聖霊は自分が取り除かれる時までは引き止める働きをされます。しかし、”自分が取り除かれる時”がきます。その時、不法の人が現われるのです。

今まで引き止めてくれたのに、何故終末になると聖霊はその働きをやめてしまうのでしょうか。他の時代と比べて不公平ではないでしょうか。

しかし、聖書が語っているのはこういうことです。聖霊が自分から進んで我々から離れるというより、その時になると、教会が聖霊を追い出すのです。よくみことばを見てみましょう。

”自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。”

”取り除かれる”と書いてあります。この表現は英語の聖書ではbe gone outと書かれています。”外へ出される”という意味です。ギリシャ語でも同じ意味になります。

聖霊が教会から締め出される、そのようなニュアンスがこのことばから伺えます。そういえば、7つの教会の中の最後の教会であるラオデキヤでは主は”戸の外に立ってたたく”と記されています。この記述も、まさにこのことをさすのではないでしょうか。終末には聖霊を締め出す教会が現われるのです。

一家の主であるお父さんが夜、外に締め出され、扉をノックしている、これは尋常な家庭ではありません。同じように終末におけるこの教会の状態は尋常ではないのです。

” 不法の秘密はすでに働いています。”
不法の究極的な存在である”不法の人”が現われるのは主の日の前です。しかし、同じ不法の原則、秘密はすでに働いているとパウロは語っています。だから、パウロの時代にすでにこの秘密は働いていたのです。不法の人が現われ、神の宮ー教会の中に座すという極端なできごとは世の終りに起きるとしても、その同じ原則はすでにパウロの時代から教会に働いているのだと彼は言っているのです。

これはヨハネが語っているこのことばと同じ原則です。
ヨハネの手紙第一 2:18 ”小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。”

聖書のどのことばでも意味のないことば、無視して良いことばはありません。
ヨハネの時から1900年もたっているのにまだ終末はきていません。彼は早まったことをいったのでしょうか。そうではありません。彼は時間のことではなく、原則、状態のことをいっているのです。彼は”今や多くの反キリストが現われています”と書きました。彼の時代にすでに現われていた反キリストの教え、これはそのままいくつかは教会にはいり、そして終りをもたらす、そのことをいったのではないかと私は思っています。パン種はすでにこの頃からまかれていたのです。

イスラエルの歴史を考えてみましょう。ユダは国ごとバビロンへ捕え、移されてしまいました。これは、神の民が異邦の地へ移されるという大変驚くべきことです。しかし、彼等の歴史をよく読むと、この事件も突然起きたというより、彼等の長年の不信のゆえにおこるべくして起こったことがわかります。

ですから、バビロン捕囚の原因は突然始まったわけではありません。彼等の歴史の随分早い時期から神への不信のきざし、根はあったのです。その頂点が捕囚なのです。

同じことが教会にもいえます。教会の崩壊は終末に突然始まるわけではありません。すでにパン種の教えはまかれ、多くの間違いは蔓延しています。そして、彼等の不信、教会の背きの頂点がこの滅びの人の出現です。

ユダはネブカデネザル王によりバビロンへ捕え移されました。移された人々は先祖のゆずりの地から移されてしまったのです。

同じことが終末におきます。この不法の人、反キリストの原則により教会の多くの人が約束の地ー永遠の命から捕え移されてしまいます。それが黙示録に記されている淫婦バビロンです。

” 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。”

ここでいわれているのは主として、クリスチャンに対することばです。クリスチャンの滅びる人たちに対して ”あらゆる悪の欺きが行なわれ”るというのです。

”それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”

預言者ミカヤの時、400人の偽預言者に同じ一つの霊から惑わしの預言が与えられました。彼等は主からのことばだと確信していましたが、実は偽りの預言だったのです。その預言のことばに従い、出ていったアハブ王はラモテギレアデで戦いに破れ、死にました。同じことが終末のクリスチャンにもおこります。偽3預言者の人数は多いでしょうが、彼等は惑わしの中にいます。そして、彼等に導かれた人々は裁かれるのです。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

牧師の覚悟

先日 ある牧師 さんと 話をした、
彼曰く 聖書の御言葉を そのまま 信徒に伝えると だれも 教会に来なくなり
飯の 食い上げに 合うそうです。確かに大変なことです 

又牧師たちの間では 信徒の 多い教会の牧師が偉い と言われ 影響力を持つそうです。

しかし 当たり前ながら 御言葉を話して 教会に こなくなるなら 教会とは言えません。
まだ 御言葉を 解りやすく 話すぐらいなら いいですが 御言葉を変える事は 聖書は禁止しています。

キリストは 愛であるから 裁きなどは無い!
セカンドチャンスはある
艱難時代には クリスチャンは携挙 されるので 艱難には あわない

など 都合の良い教理 耳が痛くない教理 を
新たに作り出し 信徒を 増やそうとしているのである。

この 巧妙な 計画が成功し 信徒が増え 成功的な 教会と世間で言われるように 成ったと します。
しかしながら 信徒さんたちは 御言葉を まともに 聞いていません なぜなら 教会成長にために
都合の良いように 変えられた御言葉を 聞いているからです。 まともなクリスチャンでは ないのです。

牧師であるなら このような 偽りを 言っては成りません 
献身したのなら 貧乏をしようが 神の儀を守るなら 必ず 祝福して くださいます。

親愛なるチョーヨンキ牧師 趙鏞基

チョーヨンギ 先生貴方の重婚問題が噂 として 広まって居ます
暴露された 女性のかた は本当の事を 言っておられるのでしょうか?

貴方を尊敬している クリスチャンは 大人数おられます 私も 最初のウチは 良く貴方の本を読んだ物です。今になって あまり役に立たなかったと 思いますが 

一言のコメントも 無いのは どうしてでしょうか?

違うなら違うと みんなに解るように コメントいただければ 安心するクリスチャンは 多いのではないでしょうか。

チョーヨンギ先生が 一言も コメントされないのは 次のように 推測するしかありません

否定して 教会のかたがたに発表すれば 暴露 した女性から 手痛い 攻撃を受けることになる。

認めれば 教会内部で激しく批判され キリスト教会から退き 奉仕の仕事に預かれなくなり社会的地位を失う。

ので 黙っているのが 適作である としか 推測されません。貴方のような大牧師がその様な 態度を取られるのは 神様に対して 如何な 物でしょうか 

是非 コメントを発表いただければ と思います

次の御言葉の 成就でないことを 願います。

マルコ13:1イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。 13:2イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

立派な石 建物が 跡形もなく 崩れてしまう とのことです。

石 岩は キリストの弟子 又は岩の上に家を建てたはずの者

家 立派な建物は 神の家の意

卞在昌と韓国人牧師について

卞在昌牧師の裁判が昨日行われた 内容はまだ 報じられていないが 京都でも牧師がわいせつ行為をした 事が 記憶に 新しい 韓国人や 朝鮮人と ひとまとめにして 論じるのは 乱暴で 傷つけることもあるので あまり 言いたくないが この 破廉恥 事件や チョーヨンキの重婚問題 聖心中央教会
浜松hccの問題など多数の 韓国人牧師の 不祥事が多い 私は 日本人は 日本人で ミニストリーをするべき だと思う。外人の手を借りることは やめたほうが 良いのでは ないでしょうか

私も以前行っていた 教会は牧師婦人が韓国かぶれで 信徒に対して 支配的であつた 告訴される所までは 行かなかったが sinであることは 間違いない 動物のうめき のような 異言 など 狂信的であるのにも 関わらず だれも 何も言わなかったのは 牧師夫婦とも  支配的であるからだ この牧師は
反省と悔い改めとは 違う 反省など する必要はない と 言っていたのを 思い出す。

韓国人の国民性 からして 上下関係で人を 見る 習慣があるらしい それらは 聖書的ではなく
儒教から来ている習慣ではないか それを 利用し 支配的に 相手を 自分の思いどうりに 動かそうとする  

アッセンブリー教団やらは 悪霊使いの ベニーヒム などを 呼ぶやら 第三の波を 取り込むやら
霊的清潔さを 保つもには 不必要な存在ではないか。もはや あやしい 韓国人牧師もアメリカかぶれ
(戦争肯定ブッシュ一族にだまされている パレスチナの半分はカトリック イスラムの国ではない)
イスラエルかぶれ(非人道的な方法でパレスチナ人を虐殺戦争と人殺し好きな国を正当化 頭がおかしい)の 牧師も いらない 出て行ってほしいものだ!

本当に 罪なのは 彼等は 普段 良い人に見える事である。
ヤクザ が悪そうに 見えるのは 彼等の 心の内を 表しているのは ご存じのとおりであるが
この たちの悪い宗教人たちは 人の良さそうな ふりをして 悪人である これは 大罪である
よほど ヤクザ どころの 悪党では できない 芸当である 普通は 良心という物に嘖まれ出来ないことである。約25人に一人が サイコパス といい 良心を持たない 人がいるらしいが 彼等はその 部類なのか? 解らないが インチキ 牧師やら インチキ教理 には 出て行ってほしい。

又でかい教会が真理ではない 神と関係のないこの世の方法と知恵で 人を集めるのがうまいのなら 
この世の人達より 狡猾である お世辞がうまく 人の扱いを心得ている。よほどの 悪人でなければ 
神を裏切りながら へつらい 自分の有利に 物事を 運ぼうとする。


偽善者たちには 解らないが 私にはわかる。 出て行け 
注意しないといけないのは 彼等の言うことは正しいことが 多いからである 話を聞いていると間違ったことは 言わない 聖書的である。

しかし 行いはまねるな と 書いてある。
贅沢な暮らし 車など を 牧師が好むなら 人に賞賛をえたいからだ 

声色を変えて 優しそうに話を 聞いてくれるなら 注意した方がよい その人は優しいのではなく
偽善者だからだ 

マタイ 23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。

マタイ 23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。

マタイ 23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。

マタイ 23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。

マタイ 23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、

マタイ 23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。


私は御言葉の剣で戦う


教会の言い訳 裁くな について

コリント 5:12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。

5 1コリント 5:13 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。


リンク先は参考
教会で不祥事を起こす 牧師 神父にたいして この様な御言葉が適当であると 言えるでしょう

このような 不祥事において 人をさばくな というのは 明らかに 間違いであります。

御言葉も言い訳に うまく使われているのです。ですから はっきりと した態度で 臨まなければなりません。


ダビデの評価?

ダビデ王を評価するのは 良くはない 人がどうのこうの というのは確かに間違っている

しかし ダビデは教会では 愚かなことをした と言われ
 見本にしては いけないと
語られている 
まだら模様の 人生 と言うような 表現を されている。

なるほど わからない 事も無い  しかし

歴代誌下
7:17 あなたがもし父ダビデの歩んだようにわたしの前に歩み、わたしが命じたとおりにすべて行って、わたしの定めとおきてとを守るならば、

のように 聖書は神の前に正しい事を行ったと数多く言っている。

確かに姦淫の罪など 犯している が 人の目 から見ると あまり 良い王様とは言えない 

しかし 聖書は 正しい人 と言っている

この差は どういう事でしょうか

彼は 神に対し真実な人であったのでしょう (←表現方法が見あたらない)

恐らく 罪に対して 真実な悔い改めが あったか? 推測する しかない 

要するに 今の言葉で言えば ~系  とか ~みたいな

ではなく はっきりと 本物の信仰者であると 思うのです。

彼は 彼自身 そのもので偽りが無く

 似非クリスチャンのように らしく 振る舞っているだけではないので ある。

よほど 似非の者の様に 罪を隠し 人に体裁を つくろう 事の方が 罪なのかもしれない。

うますぎる メッセージ

大教会の牧師のメッセージはうますぎる 何処をとっても 落ち度がない
言っていることも その通りで 間違いがない 冗談も よく考えて作らせている
しかし ただ一つ落ち度がある
作られているから すばらしいメッセージなのである。
メッセージを 人向けに作っているのか 神に仕える 伝言者 として メッセージを取り次いでいるのか !! 

献身者であれば 神の前で後者であるべきである。
与えられた 御言葉は 生活をとおして 証明される
その様に得た御言葉でなければ 身につかず 実らない。

御言葉だけが日曜日の教会で 語られていても 机上の空論 にしかならない
実らないのである。御言葉と生活が分離しているのである。

胡散臭い 事この上ないのである。


私の以前 少しお世話になった教会では 御言葉も すばらしい 信徒の人達も
ニコニコ感じよく 接してくれ 天国の様なところ と 思った。
しかし 個人的に知り合うと さも 人を傷つけるような 言葉をはきかけられ
この世の人達より ひどいのである これは 
御言葉と生活が分離しているのである
私が この目 で見た 事実である。

信徒が教会から 一足踏み出すと この世の人となる ような 教会も同じである。

マタイ 23:2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。 23:3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。 23:4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。 23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、 23:6 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、 23:7 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。

確かに正しい事を 言うが 心が違うのである。 体裁のためにやっているのである

これは 間違いなく私が この目でみて 確かめたことである。


黙示録
3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

上記した教会は この黙示録のラオデキヤにある教会のようである


私は教会に行くようになって 最初のころ クリスチャンらしく 振る舞うことが 好きでした 教会のひとの様な話し方 など (みな クリスチャンは同じような 話し方をする エホバの証人とよく似ている)行いにより自分の清さを人に示そうとしているのである。 しかしながら ある事がきっかけで すべてその様な体裁は吹っ飛んだ なぜなら 砂の上に 家を建てていたからだ その意味がよくわかった

教会が私の 初期のような クリスチャンらしい 態度を 演出して 伝道いや 集客と言うべき事をやると 人受けが よいのである特に女性には 
皆 同じような 風体 なのは そのためである。

らしくしなければ ならないのは 本質が そうでは ないからである。

物事の 本質はよく 見分けるべきです。

神の事を思わず 人の事を思う

マタイ
16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
16:23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている


あなたの教会ではどうでしょうか 賛美 も 人に向かって かっこよく やっていませんか 
証も受けの良い証をしていませんか 私も 以前はしていた 覚えがあります

 艱難前携挙説なども そうです みんな 苦しまない 様に 人の受けを狙って 教会員を増やそうと しています 聖書の中にはその様な記述は無く イエス様は サタンと言っています ぼんやりしていると イエス様に叱責されてしまいますこの様な事はせず 聖別し主の前にささげるべきです その様な教会がありましたら聖別することの大切さをみんなで  話し合ってください

キリスト教会での偽預言者の見分け方

エゼキエル

14:9 もし預言者が欺かれて言葉を出すことがあれば、それは主であるわたしが、その預言者を欺いたのである。わたしは手を彼の上に伸べ、わが民イスラエルのうちから彼を滅ぼす。
14:10 彼らはその罰を負う。その預言者の罰は、問い求める者の罰と同様である。
14:11 これはイスラエルの家が、重ねてわたしを離れて迷わず、重ねてそのもろもろのとがによって、おのれを汚さないため、また彼らがわが民となり、わたしが彼らの神となるためであると、主なる神は言われる」。

新約と旧約の預言は意味が少し違うがここでは 割愛します。

14:9 もし預言者が欺かれて言葉を出すことがあれば、それは主であるわたしが、その預言者を欺いたのである。わたしは手を彼の上に伸べ、わが民イスラエルのうちから彼を滅ぼす。

この意味は預言者 が 主が~と言われると公言し 当らなかったらそのものが偽者だと解るように 主が惑わした という 意味です。

牧師 伝道者 誰でも 主が~と言われる~しなさい といい 外れると その人を信用しては いけない
偽者として 警戒せよ と言う意味です ビルハモン ベニ-ヒム チョーヨンギ などの 預言も見事に外れた が 何年に~が起こります と 時間を指定して 主が言われる と 言いはなったのです
(チョーヨンギはヒトズテに 聞いただけなので 自分で確かめてください)

有名な牧師だからでしょうか 問い求める者の罰と同様である。 とあります
ご自分で 決めてください

教会内で起こる事件 聖霊か悪霊かは実を見て判断するしかない

7:18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

異言を語る 語らない どちらにせよ 聖霊の実というもので 解るのです とくに 

ペンテコステ系の教会 第三の波系教会で
スキャンダラスな事が起こる 私の知っている限りでも 神学生の不倫 殺人事件 有名な話では松沢牧師の覚せい剤乱用殺人 牧師の信徒に対する暴言 教会に行くと無性にいかがわしい思いが湧き上がってくるクリスチャン 

第一テモテ
3:1 「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。
3:2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、
3:3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、
3:4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。
3:5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。
3:6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。
3:7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。
3:8 それと同様に、執事も謹厳であって、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利をむさぼらず、
3:9 きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。
3:10 彼らはまず調べられて、不都合なことがなかったなら、それから執事の職につかすべきである。
3:11 女たちも、同様に謹厳で、他人をそしらず、自らを制し、すべてのことに忠実でなければならない。
3:12 執事はひとりの妻の夫であって、子供と自分の家とをよく治める者でなければならない。
3:13 執事の職をよくつとめた者は、良い地位を得、さらにキリスト・イエスを信じる信仰による、大いなる確信を得るであろう

私の以前行っていた教会では 牧師夫人が酒を飲み悪口言うのを聞いた事があります 
又この 婦人は 何度も献金をすれば 金持ちになれると言うような話を強調し ていました。
又牧師の娘当教会の宣教師(イスラエル在住)は フリーメーソンの事務所で働いたことが あるそうである。いったい何を どうするのでしょうか?

 この様な話は あげつらうと 切が無い   悪口と言うより あきれた真実であります。
これは 聖霊の実なのでしょうか? 間違いなく悪霊の実であります こういう事が起こると 必ず 彼等は知られる事を恐れ隠すのです 。神に仕える 身なら 悔い改め みんな に誤るべきでは ないでしょうか。この様なケースでは 恐ろしい

Aという クリスチャン殺人者は(懲役17年) 姫路H教会所属 だ
ったが 信徒は この事を知らされていない。 又当時関わりのある 京都○○チャーチ なども責任を 否定した 法的には どうであれ 何か きっかけがあるのだから 責任が無いわけもないであろう 指導者なら多かれ少なかれ責任を感じるはずである。羊を神様から預かっているのだから 当然のことである

又関わりのある信徒はというと 神様が許して下さると言う  さて御言葉 はどこにいったのか?

5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
聖霊に導かれるならこの様なことは 行わないと聖書は言っているのです。


まず イエスキリストを信じていれば 人など殺せるはずがない !!
という事は 殺人者のKはキリストなど 信じていたのか 疑問です 
 と言うと 言い過ぎでは?
と上品な方は思われるかも知れませんが 鳥を 絞め裁くだけでも 大変なのに 
一度刺して 苦しむ人を見ながら 何度も 刺しつずける 様なことは普通ではできないのです
明らかに異常な行動です

むしろ裁き彼をどうするのかを 決めるのは 神のすることで 私たち人間が この 大きな罪 を許してくれと神に頼むのであれば 世ほどの 覚悟と 自己犠牲を覚悟して 言うべきで 軽々しく 言うべきでは無いと思う。
 
この様に どんな 結末でどのような 状況か を見れば 聖霊の働きなのか どうか 見分ける事ができます。

Home > あなたの教会でも

Search
Feeds

Page Top

太陽光発電 費用